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深刻な本質はどこにあるか

今回の朝日新聞の訴状は、極めて深刻な内容である。事実そのものでなく、事実をどう表現するかに関して、ここまで多数の項目を裁判所の判断に委ねるというのは、自由社会の自己否定に他ならない。全項目とも言論戦で決着が付くものばかりであり、私は言論戦に応じているのである。
本件の裁判所の扱い方次第では、日本の言論が事実に著しく反する記述による名誉棄損の問題ではなく、事実についての判断や推論や感想の表現に関して、金と権力のある会社や機関が個人著者を訴え、裁判所の判断によって表現の幅を大きく規制されるという、明治以後最悪の言論統制社会を招きかねない。大日本帝国下の言論は基本的に➀皇室と②共産主義と③猥褻表現を除き、今回のような表現の自由を明らかに侵害するレベルの根源的な検閲はなされていないはずだ。政府批判は戦前も盛んであり、軍閥批判も昭和10年前後から難しくなるが、それ以前にはむしろ軍人の肩身の狭い時代が続いていた。
 私は訴状を法律家とは別の見地――つまり歴史研究を行いながら思想文学の営みをしてきた一思想家として――新年あけに丹念に研究しようと思う。
 私一個の問題でもなく、朝日新聞の横暴を難じて済むレベルの話でもないのではないか。
日本の言論の自由の歴史を大きく歪める大不祥事になりかねない。
左右を越えた有識者が、朝日叩き、小川擁護というレベルではなく言論の自由に関する深刻な事件として声を上げてほしいと思う。
色々な方からご心配をいただいているが、私は失うもののない人間だから、ご心配には及ばない。奪われ続けている勉強時間以外に本当に欲しいものは何もありません。
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朝日はこれがやりたかったのです

朝日新聞は今朝の紙面で大きく拙著への提訴を扱っています。「根拠なく誹謗中傷」との大きな活字に読者の目が行きます。私の側の言い分を一度も載せずに丁寧な私の回答も都合よく私が不誠実に見える引用をしてこの紙面です。本当にファッショそのものですね。
 まあ端的に言えば、拙著によって朝日新聞の報道が本当に大丈夫かと心配していた多数の読者や朝日ファンに対して「朝日は裁判を起こし、小川をここまでこき下ろせるんだから、多分朝日の方が正しく、小川は朝日に絡む右翼のごろつき評論家なんだろう」と安心させるための紙面です。
 はっきりいって裁判そのものよりこの紙面で多くの読者を安心させたかった=騙したかったのでしょう。
 が、この紙面そのものが大変な代物です。訴状中身の惨状は類を見ません。彼らには社会的な責任を取らせます。朝日は自滅へのパンドラの箱を開けてしまいました。
平成29年12月26日 朝日新聞 

寸感

今朝は早朝に起きて散歩、掃除、神事。数年ぶりにやつと生活らしい生活を取り戻しつつある。朝日新聞への今朝の段階での回答を作成した。後程公表する。朝日新聞は裁判に逃げたが裁判所など全く主戦場ではない。裁判は裁判の論理に徹して対処する所存だが、私は心ある皆さんと共に、これを社会問題として全国民注視のテーマに持ってゆくつもりだ。これは裁判事案ではなく、朝日は架空の総理スキャンダルを捏造したか否かという大社会問題なのだ。
さて、これから月刊誌の原稿執筆。だいぶ難渋している。
源氏物語は絵合に入つた。マイネッケの読み進め。中西―西尾対談の読了を目指す。とにかく読みたい本が山積しており、書きたいテーマも山積している。

朝日の訴状への初見コメント

朝日新聞社は、拙著『徹底検証 森友加計事件 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の中身を巡って、私と出版元の飛鳥新社に対し、5000万円の損害賠償請求を提訴しました。今後の対応の詳細は明日以後、出版社および顧問弁護士と協議しつつ詰めてゆきますが、以下、訴状の初見の印象からの簡単なコメントをまず発表します。
執行役員の言葉として以下が掲げられています。
「小川氏の著書の事実に反した誹謗・中傷による名誉毀損(きそん)の程度はあまりにひどく、言論の自由の限度を超えています。建設的な言論空間を維持・発展させていくためにも、こうしたやり方は許されるべきではありません。やむを得ず裁判でこの本の誤りを明らかにするしかないと判断しました。」
笑止千万とはこのことです。私の言説が言論の自由の限度を超えているというなら公称650万部の新聞社は、たった9万5千部しか出ていない本のかよわい一著者に5000万円の賠償請求をするのではなく、650万人の読者に向かい、小川の非を鳴らし、朝日新聞の報道がいかに正しかったかを説得しなさい。それで私の社会生命、言論人生命は終わります。私が事実に反した誹謗中傷本の著者として社会生命を失えば、朝日新聞社は言論機関として自己の正当性を堂々と証明できるのです。
裁判所に判断を委ねる必要など、社会的に圧倒的強者であり、自説を証明できる膨大な紙面と圧倒的な読者数を誇る朝日新聞社の取る道としてあ�ってはならぬ最悪の邪道と言う他ありません。
それよりも、朝日新聞の再三にわたる「言論の自由の限度を超えた」捏造―珊瑚礁事件、従軍慰安婦、吉田調書、森友加計捏造報道などなど―についての、今尚決して清算、克服されていると言い難い損害を出来る限り客観的に算定し、日本国民の総意としての損害賠償を朝日新聞社に徹底的に、「最終的且つ不可逆的に」国民の総意として求める時期が来たのではないでしょうか。とりわけ従軍慰安婦報道については、日本国内では社会的な事件となり全社的な謝罪をしたにも拘らず、国際世論の鎮静に向けて朝日新聞は全く努力せず、世界での慰安婦問題の拡散は留まるところを知りません。この日本国家をあげての損害を金額算定すれば天文学的数値に上るでしょう。  
そうした自社の「言論の自由の限度」をはるかに超えた現況をなかったかのようにしておきながら、自社に批判的なドキュメンタリーについて、紙面を使っての検証や反論のプロセスを一切省き、表現の細部ばかりを争点にしていきなり巨額の賠償請求訴訟を起こすことは、自由社会を破壊する言論弾圧に他なりません。
しかも、この訴状は、私の12月5日発出の朝日新聞社への回答をほぼ全く踏まえていません。
〈千葉光宏・朝日新聞社執行役員広報担当の話〉
 「小川栄太郎氏の著書には、森友・加計学園に関する朝日新聞の一連の報道について事実に反する記載が数多くありました。本社には一切取材もないまま、根拠もなく、虚報、捏造、報道犯罪などと決めつけています。具体的にどう違うか指摘し訂正を求めましたが、小川氏は大半について「私の『表現』か『意見言明』への苦情に過ぎません」などとして応じませんでした。」
馬鹿を言うなという言葉を吐くのも虚しい気持ちになります。私は朝日新聞申入れの「具体的にどう違うか指摘し訂正を求め」た項目に全て丁寧に反論しています。その事実をこの訴状及び千葉氏のコメントはほぼ完全に隠蔽し、私との言論戦から逃げて、まるで私がろくな回答をせず不誠実な対応をしたかのような印象操作の上で、訴訟を挑んできたのです。
その上、前回の申入書と同様、個々の訴因がばかげています。一例のみをあげれば、私以外の多くの方が悪質な捏造として批判している5月17日付の「総理のご意向」スクープの黒い枠で文章を覆い隠した写真について、「新聞の一般的な手法」だなどと、常識的な感覚では理解に苦しむ開き直りをするなど、私が朝日新聞主導の「捏造」と主張する大筋の主張を覆し得ない細部表現への無理筋の抗議に終始しています。
私は今後も全くひるまずに批判すべきは批判し続けますが、今回の訴訟を見て、言論人の中には、朝日新聞を批判することが訴訟リスクを含むと考え、批判を手控える方も出てくるのではないでしょうか。また他の大言論機関がこの手法を模倣すれば、日本は事実上、マスコミ、大企業による言論封殺社会になりかねません。一命を賭しても、今回の朝日ファシズムを容認するわけにはゆきません。
裁判は当然徹底的に受けて立ちますが、裁判以外の広く開かれた日本社会で、「森友加計は朝日新聞の捏造か否か」、「拙著が描く朝日の報道犯罪は妥当な論評と言えるか否か」、「今回のような訴訟は言論弾圧であるか否か」などを、朝日新聞が社会的に決して逃げられない形で訴えてゆく所存です。以上

さて…

いい天気だ。天気がいいのは結構なのだが、朝日新聞がなしのつぶてである。年始に正式な申し入れをして、文面を公表しようと思っている。朝日新聞が黙っているわけにゆかない状況、黙っていては大変な目に合う状況を作るつもりだ。
 が、日本の危機の中で、私がよりによってメディアとの戦いに忙殺されているようでは、この国は本当に間に合わない。足りない智慧ではあるけれど、国家の経綸と文藝に集中したい。前から絶体絶命の危機のみに集中して取り組むべきだというのが私の国家の仕事の鉄則であった。当初それは安倍総理再登板にのみ賭けるという方針、次はテレビに絞ってのマスコミ批判の路線を作るという方針。今の朝日新聞との喧嘩は正直なところイレギュラーだが、存外国際世論や国際リベラルとの世界の保守派との共闘を考えると球筋は正しかったかもしれぬ。
 しかし、私は運動家ではないので、日本論、人類における政治の問題を足かけしながら探求する仕事と藝術の仕事が日々の最優先事項だ。今日の読書は西尾幹二氏、中西輝政氏の最新対談『日本の世界史的立場を取り戻す』、マイネッケを引き続き読む。「世界史的立場」 やっとここに至ったか!! この言葉は京都学派の大東亜戦争時の用語。その契機は開戦直前に行われた小林秀雄、河上徹太郎、林房雄らと京都学派の座談会『近代の超克』である。ずっと私の懸案だったテーマが、愈々日本の明日があるかないかという重大な国家的な緊急テーマに躍り出た。
なぜ緊急テーマと化したかと言えば中西氏が30年近く前から国際政治上、日本の取るべき針路、構築すべき知的課題を極めて的確に出してこられたのに、日本の知識人や政治家が全くそのテーマに取り組まず、ここまで追い込まれたからだ。中西氏が安倍総理批判に転じられたのはつくづく残念だが、その知的営為は―極端な安倍批判部分を除けば―今尚最も傾聴に値する。西尾氏の『国民の歴史』以来の知的業績も、文字通り営みの全てが「近代の超克」の試みで、小林や福田恆存が手付かずだったところに踏み込んだ仕事だ。私の領域も全く重なる。マイネッケ辺りから読み返しているのも無論そのためだ。読書時間が欲しい。その一事を巡って毎日の苦悩、慨嘆が続く。