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朝日新聞広報部から

朝日新聞広報部から足立康史議員、私それぞれに来た申入書の封書宛名書きを平よおが公開していたので、改めてお見せする。
 足立氏宛で「衆議員 議員」となっている点が注目に値する。知性派朝日ならではの何か意味のある新造語なのであろうか。また宛名が中央という常識をも超越している点、まさに旭日の筆勢というところである。
 また、私宛の達筆度も驚嘆に値する。拙著は方々で「知能の低いネトウヨの書いたヘイトスピーチ本」だという有難い批評を受けているので、この宛名は私の「低い知能」に、朝日が歩み降りてくれたものなのかもしれない。
 歴史と伝統を誇るクオリティーペーパーのなさることは一事が万事奥行きが深すぎて、私には解しかねる。泉下の漱石さんにでも相談に行くか。が、その前に江藤淳さんに挨拶をしておかないと噛みつかれるか。
 冗談はともかく、昔、日本郵船は礼状を書くのに内田百閒を雇っていたという(父親が幹部だった今日出美の回想)。
 政治思想以前に、文化保守主義に立ち返らないとこの国は左右手を携えてサルの国に転落し続ける。
 保守系出版社も他山の石にして、宛名位きちんと書けるよう若手社員を教育しておいてください。うちもチェックし直します。
申入書 
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感想

今日は指揮者フルトヴェングラーの命日だ。没後64年。彼への憧憬から始まった私の人生だが、随分遠いところまできてしまったとも、政治と文化とに身を横たえる危ない芸当を強いられて生きている点は、フルトヴェングラーと同種の運命を別の形で生きることになってしまったともいえる。
 勿論これは私自身を余りに不当に大きく言うことになるだろう。文学者としての仕事が余りに少ない。話にならないと言える。今年から五年は私自身の人生を生きたい。その先はないものと前提して文学・思想の仕事に猛烈に専心する。ぼろぼろになりながらにじるように前身はしている。献身的な仲間たちのお陰で、書斎に戻る最後の詰めには何とかたどりつきつつある。
 今日は音楽評論集の推敲。源氏蓬生、植村氏『丸山眞男と平泉澄』、西村貞二『ヴェーバー、トレルチ、マイネッケ』、伝習録、細雪。

慨嘆と憂慮

広辞苑が改訂される度にイデオロギー的な偏向を加えてゆくことを指摘した本がかつてあった。朝日新聞が、嘘を付きながら居丈高に正義を主張する姿勢も年年歳歳人としての許容限度を超えてひどくなる一方だ。
 戦前の日本の左翼知識人はマルクス主義理解の程度は低かったが、人間性は遥かに純粋だった。たといソ連のスパイだったとしてもだ。またそうでない左翼――河上肇、小林多喜二、中野重治を始め、心情や人間性においては共感できるものがあった。
 目的と手段論争などで、目的の為には非人間的行為をあえてするという立場表明を戦前日本の左翼が幾らしても、それへの違和感を解消できない左傾知識人はたくさんいた。
 また体をぶつけて革命をしようという覚悟がある人達は、それだけの何物かではあった。
 いつからだろう、左翼が、嘘を付く事への何の痛みも感じず、根拠ない正義の主張を振り翳す「人間の屑」に成り下がったのは?
 勿論、ポストマルクス主義―リベラルと言う名のソフトマルクス主から、それは始まった。一応そう言える。
暴力を封じて思想教育により細胞を伝播してゆく。日本では丸山眞男、東大システムがその震源地だし、田中英道氏のようにフランクフルト学派にその典型を見る見方も当然正しい。が、丸山やアドルノは学生運動に裏切られたわけで――二人ともフルトヴェングラーという「右翼思想」の音楽家の大ファン(笑)――人間性の根っこは文化保守主義者で、モラリストだったと私は思う。
この世代からの戦略的なリベラルの偽装が、一体どういう経路と理由で、知的な精錬を完全に捨て、暴力革命よりたちの悪い思想洗脳の世界的拡大につながり、世界を汚染し続けることになったのか。ハーバードに代表される世界の有力大学、国連など国際機関、三大ネットワーク、ニューヨークタイムズ、ル・モンド……。そしてこの人たちがリベラルを絶叫しながら自由社会の保守政権や保守陣営を攻撃すればするほど、中国共産党の覇権が世界に浸透する。
ものの見事に対応しているのである。
 思想戦をベースにしない政治闘争は勝てない。
 …。私は政治闘争はおろか、思想戦にも本当に興味がない。私には真善美しか興味がない。それでも、私はやり続けねばならないのか。いつも私を苦しめ悲しめる問いだ。

感想

私は朝日新聞と戦っていると思われているが、戦っていない。教え諭しているだけだ。
 私が戦っているのは私自身とだけであって、時間と金に苦慮する中で、本当の文藝、本当の思想の営みにどう戻るかという苦闘を続けている。そして時間が取れて机に向かうと、今度は、勉強不足の中で菲才の自分との戦いになる。これは正直のところ本当に苦しい戦いです、五十歳にして勉強不足、時間を取られ続ける苦悩というのは。

昨日は、議員会館に足立康史議員を訪問

実は初対面である。短い時間だったが、重要な論点を整理、共有できました。大変有益かつ今後に向けて貴重な時間であり、今後が楽しみである。会話の中身は? 優雅な対談です(笑)
それにしても、今日も未明に北朝鮮のミサイル発射。小野寺五典防衛相によれば「高度は4000キロをはるかに超える過去の最大級レベルの高さで、かなりの能力をもった大陸間弾道ミサイル(ICBM)と考えられる」という事態の最中、まだ一面トップで森友を扱い続ける朝日新聞の意地の張り方は、組織としてブレーキの利かなくなった感を抱かせる。
昨日の朝日新聞オピニオン頁は一面全部使って「フェイクとどう闘うか」だ。思わず大声で笑ってしまった。
中見出しも凄い。「歴史のねじ曲げ、著作の出典精査し、巧妙なウソ暴いた」。誰の話だ(笑)。ホロコースト研究家のデボラ・リップシュタットのインタビュー記事である。中身は例によってとんでもないものだ。いや、そんなこと以前に、朝日はこの見出しを打つなら、リップシュタットではなくて私のインタビューを掲載しろ(笑)
自分がしてきたこと、糾弾され続けてきたことを逆手にとって、後世の史家の笑いを取ろうというのだろうか。
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日録

昨日は、日本会議設立20周年大会に出席した。私の日常は多忙と事件続きで、各種会合には大概義理を欠いてばかりいるのだが、20周年となれば無理算段も必要だ。小沢政治改革により自民党が大幅に弱化した平成年間、日本会議がなければ、日本の政治状況は致命的なところまで追い込まれたのは間違いない。日本会議が安倍政権をコントロールしているなどの陰謀論はすべて笑止なデタラメだが、日本会議が事実上保守政党の牙城として地方組織の役割を大きく担ってきた事実は、日本の政治史の重大な部分だと断言していいだろう。
 懇親会で、田久保忠衛会長、櫻井よしこ氏、杉田水脈氏、伊藤哲夫氏、有村治子氏、新田均氏、加戸守行氏、石平氏、百地章氏、産経の熊坂隆光社長らとご挨拶でき、また多くの方にお声をかけて頂いた。全員から朝日との戦いの激励の言葉を頂戴した(笑)
 小堀圭一郎先生には、和辻哲郎について書かれた近著の御礼もできていなかったが、丁度近代思想史研究に戻る折とて読み次第感想をお送りすることを約束できた。
 また、どうしてもお祝いを申し述べたかった日本会議の椛島総長と久しぶりにお話できたのもよかった。
 私が日本会議20周年に寄せた一文「感想」に次の一節がある。
 「講演は椛島有三総長と一緒に務めると聞いてゐた。それまでお会ひする機会はなかつたが、会場のある駅の改札で私を待つてをられる姿を一目見て、人物だと感じた。
 人物といふ言葉は今の人には死語かもしれないが、私には、この言葉以外の、人間に関するあらゆる評語はすべて、逆に、死語だ。人に会つて、人物であるかないか以外に見たいとも知りたいとも思はぬ。そして、人物といふ言葉を自然と連想させる人が殆どゐないことを、嘆く思ひももう忘れるやうな、今の日本だ。私には、椛島氏を、まづ見た瞬間に、人物といふ言葉がすつと心に来た、あの感触の外に、日本会議とは何かといふことを語る資格も興味もない。」
 日本会議に寄せた一文は短いが、私にとつて最も重要なことを幾つも濃縮して込めた。平易な文章だが解読、会得は難しいであらう。
 一通りのご挨拶を終へると、竹本忠雄先生と共に早々と会場を出て、ホテル内のバーで久しぶりの一献。言ふまでもなく大先輩だが、率直に言へば先生は私の心の真の友。昨年来、自伝的ロマンの完成を急いでおられる。未完成交響曲にならぬように――。先生も何と既に85歳、一年余の執筆で2500枚に達したという。大長編だ。最終編に挑まれている日々である。私も心を静かに研ぎ澄まして自分の研究に集中したい。今日はびっしり予定が入るが、これから出社までの2時間、研究書の熟読に入ろう。

感想

月曜日、秋もすっかり深まり、今日も爽やかな快晴だ。
 月刊誌原稿の戻し、朝日への回答の完成、私のシンクタンクの為の挨拶やプレゼン資料などで早朝から仕事の山だ。今週後半からは思想文学の仕事に戻れると思う。
 昨晩は三島由紀夫と船橋聖一の対談、谷崎追悼を独酌で読んだ。谷崎ほどの大作家に対して国家的追悼がないこと、吉川英治ならば国民道徳のバックボーンになることで国民的作家とされるのに、谷崎はただ文学専一だからそう遇されないと慨嘆している。
 三島もまずその文学をきちんと読む人が増え、作品から三島に近付く人が増えないとどうしようもない。作家としての三島が、谷崎、川端を越えた、いや近代文学の総重量の中で、ダントツの何かだとは到底言えない。才能が類を絶して煌びやかで豊富なことと藝術の達成は必ずしも一致しない。今の日本で文藝を論じる人はそんな基本的な味読の経験もない人が多すぎる。
川端はあるところで、日本の小説は源氏、西鶴から鴎外、漱石というのは間違いで、秋声へと結実したと書いたことがある。豊饒の海前半二部が出た時、川端は源氏以来と書いた。
秋声と三島――この極度に対極的な作家のそれぞれの達成した言葉の芸術の意味を誰か論じたものがあったか。
いや、それ以前に、紅葉露伴からして、誰もきちんと、前者の江戸小説の継承、後者の文人文学の近代化の意味の対照性と共通性も論じられてゐない。
近代日本文学を論じる世代が来る前に、文壇が消え、文学を読む層的な読書人が消えてしまった。
そんなところに優れた国家など持続しない。
そうそう、昨晩ご紹介したAmazonの平和の使途さん。全面的に文章を書き替えています。ここまで完璧にひどいと寧ろ左翼を下げるための保守側の工作か。

感想

昨日は久しぶりに憂国忌に参加した。西郷と三島と題されたシンポジウムは極めて啓発的で、この種のシンポジウムとしては最上のものと言えたのではないか。水島総さんが司会、松本徹氏、渡辺利夫氏、新保祐司氏。桶谷秀昭先生は体調不良とのことで御欠席だった。
三島文学館の館長を長く務められた松本氏は、三島が西洋否定をはっきり選ぶのは林房雄との対談『日本人論』の時だとする。少し前、三島は林の『文明開化』を賞賛する書評を書いており、林はその線で話をしようとするのだが、三島は最早乗ってこない。ここで三島の「日本」がある意味で確立したのだ、と。
松本氏は豊饒の海も、西洋的な小説の否定として構想されたとする。むろん輪廻と唯識を思想的ベースにしているからそれは当然だが、しかし、豊饒の海は「文明開化」ではなく、文明開化を超克した日本と言えるか。またそう言ってやることが三島への親切になるかどうか。私は文藝を思想で解釈してゆく議論が好きでないが、いずれ遠からずこの作品のことはきちんと書きたい。
 新保氏は内村鑑三への深い造詣をベースにこのテーマに切り込んだ。内村が言う「美と崇高」――バーク、シラー以来の美学の主題でもある。バークは保守主義の確立者である前に近代美学の嚆矢だった――の内、三島はむろん「美」の天才だが、徐々に「崇高」へと志向が移っていったのではないかとする。晩年三島が西郷を蘭陵王で賞賛するのはそのような文脈の中で西郷のありようを語ったわけだ。ただし三島自身は西郷の側には行けなかった、天才であることから自由になれなかったとの指摘は同感だ。その亀裂が三島のアクチュアリティだから、没後47年経ってもこうして真摯に論じられ続けているわけである。
新保氏は、三島と西郷は共に実は日本人離れしていると指摘した。両者を陽明学で結び付けた場合、陽明学の持つキリスト教的性格――高杉晋作の指摘だという、見落としていた――は、むしろ非日本的だというのはなるほど興味深い着眼だ。敬天愛人なども確かに、日本の思想的語彙にはない。西郷の維新成就の腕前はこれも日本人離れした緻密大胆なものだし、一方、三島の晩年が寧ろ非日本的な神学の世界に入ってゆくのは明らかなのである。
渡辺氏は近著を出されている福澤が西郷を何カ所もで絶賛していることを繰り返し取り上げられた。福澤が榎本、海舟の処世を批判し、西郷を絶賛したのは瘦我慢の説だ。渡辺氏は福澤の思想の核心はむしろこうしたところにあるとされ、福澤を単純な近代主義者、近代イデオローグとする慶應ベースの定説に対する違和感を述べておられたが、これは私の多年の考えでもある。学問ノススメは江戸的儒学を批判してはいるが、だからと言って「近代的人間像」の提唱などではなく、新たに語り直された儒学と言っていいものだし、年を追うごとに、日本人のエートスそのものに福澤がかえってゆくのは福澤の主要な文章を素直に読めば明白だろう。
その上で、氏は興味深い仮説を出された。福澤の西郷絶賛は、縁戚であり、一度福澤を暗殺に来た後師事するに至る増田荘太郎から直接の西郷の風貌、日常を聞かされての事ではないかという。
この話は何か広がりがありそうな気がする。
いずれにせよ、西郷、内村、福澤と言うそれぞれに思想的には極度にカラーのきつい異質な人達が、実は「代表的日本人」として厚みを持って精神史的につながっているのに、一方、昭和45年の三島は余りにも孤独だったのではないか。
三島の「日本」と「自裁」には、そうした豊かな精神史的な横繋がりが感じられない。時代と孤絶している。西郷の死が、自然に明治天皇、内村、福澤、大久保らと繋がっていたようには、三島の死は誰とも、実はつながっていない。
江藤淳がそれを人工的な事件、三島の病気として、小林秀雄と激しくやりあい、昨今の三島崇拝者に評判が悪いが、私は江藤の「感じ方」を充分理解できる。
三島が一人で人口劇を演じたのではない。何をやっても人工的で、日本人の自然な発露にならぬような空間に既に昭和45年がなっていた。それはGHQ由来の問題というよりも、第二次大戦後、世界中を覆う病気の日本での現れなのだが、その話を川口・マーン・恵美子さんが次のように挨拶されていたのを摘録しておく。
「日本に帰ってくると、こういう「日本が」とか「我が国は」という議論を出来る場があってほっとします。ドイツでそんなことを発言すると右翼と決めつけられ、もうそういう言論の自由は全くない。EUが、世界が、地球がという主語でないと事柄を語れない。」
 フランスも同様だと竹本忠雄先生にうかがったことがある。
 ナショナルな価値、崇高さを大切にする道の外に、人類も地球もありはしない。これは思考以前の常識だろう。国民国家の成立そのものが人類の英知だったのであり、それが超克されるとすれば、自然に任せる他はなく、イデオロギーで国家や民族を崩壊に導くなどもってのほかだ。そのいわば常識敵叡智をヨーロッパにおいて全面的に否定する思想潮流がポストマルクス主義の全学問思想藝術領域を覆い、ヨーロッパはこの半世紀で思想的芸術的に自壊し続けている。日本もその激震に包まれているのである。
 早い段階でこの思潮を根底的に否定、嫌悪していたのが指揮者のフルトヴェングラーだ。私の思想的師匠をただ一人上げろと言われたら実はフルトヴェングラーなのであるが、彼は、両大戦間に早くも、ナショナルな価値を否定する進歩主義がやがて人類を饂飩粉のように覆いつくし、すべてを凡庸にするだろうと書いた。ニーチェの予言は20世紀前半に急激に現実のものとなりはじめ、今や一世紀かかって人類史的現実になりつつあるわけである。

随感

朝から朝日への回答を書いている。勉強時間を確保しようと悪戦苦闘している身としては時間の浪費で不快極まりない。
源氏は蓬生に入ったが、この所毎日2頁ペースだし、アメリカ論と日本の国体を巡る研究の読書時間も大きく削られている。
昨晩は音楽を聴こうと思ったら番狂わせで小津の『秋刀魚の味』を見た。まさに比類のない古典的名品だが、なぜそう感じさせるものなのかを少しきちんと書いてみたい。
植村氏『丸山眞男と今泉澄』は昨日本格的に読み始めたが、政論記者丸山という第一章で無数の異議申し立ての書込み。
植村氏は丸山を正確に批判出来ているが、基本的に、政論記者として丸山は、後世から見てではなく、同時代から見ても丸山の最も愚劣な部分であって、著者が誠実に守ろうとする方法「論理内在的批判」が生きないと私は思う。同時代、既に吉本隆明に長編批評で批判されて答えず、林健太郎始め多くの同時代人に批判されて答えず。「戦後の虚妄に賭ける」などと言ってしまえる人間は、どんなことでも言えてしまう。「虚妄」に賭けるとは尤もらしい美辞麗句だが、実際には人生は賭けないよという言い訳に過ぎまい。内在的批判をしても、どこまでも逃げるだけではないだろうか。
無論、丸山には江戸政治思想史から幕末、そして福澤の熟読など今日でも基礎的な意味で対決する必要のある研究がある。植村氏の理解の筆は深いので、むしろ政治学者丸山を論じてほしいと感じた。尤もこれは冒頭数十頁だけからの無責任な感想。第二章今泉論に入るのが楽しみだし、後半どう丸山と今泉をぶつけてゆくのか期待している。
今日は憂国忌。私は三島の命日をこう名付けて追悼するのに違和感があるが、今日は久しぶりに出席しようと思っている。知友の西法太郎氏が新刊の三島論『死の貌(かたち)』を出版され、会場販売もあるとの事だ。事実関係を多年精査した上で、三島と川端の関係などに赤裸々で新しい事実を描き出したと聞いている。西氏や宮崎正弘氏、富岡幸一郎氏などとも久しぶりにお会いしたい。

感想

帰宅して一人酒。
いや、その前に朝日新聞である。
私という一個人の書いた書物について、事実や表現に抗議、訂正の要求というのなら、まだ理解できる。しかし言論機関なのだから、より本格的な反論がしたいなら、当然紙面を使い、私の言い分と朝日側の言い分を並べて読者に問うのが正攻法であろう。
ところが、朝日新聞は私に申入れを行い、その中で16項目の内、現時点での私見では2項目を除き、ポパー的な意味で反証可能でない主観的事案について「事実に反するから名誉棄損だ」として、抗議、訂正、謝罪のみならず、賠償の要求までしてきた。
「社是でないことを社是と書かれたから賠償をよこせ」「取材窓口に取材しないで本を書いたから賠償をよこせ」「文科省文書の内安倍の関与を思わせる部分を殆ど報じていないと書いてあるが、3回は安倍の関与以外の記事を出しているのだから事実と違う、賠償をよこせ」
 社是は比喩だ。馬鹿でも分かる。私が必要と判断した取材は朝日の正式な取材窓口ではないルートで取材し、それでも頓挫したからそこから先は推理、推論とはっきり断っている。私の文科省文書に関する主張の核心は朝日がスクープした8枚全文を公開、解説していない点にある。膨大な朝日の加計報道の中でたった数十行、文科省文書の安倍関与以外の部分を記事にしたからと言って何を威張っているのか。
こんな言いがかりを並べて賠償を要求するとは、恐怖と弾圧そのものではないか。大新聞社が一個人にこんな暴力的な要求をすることを一度でも許せば、日本は言論の自由を完全に失ってゆく。皆さん、今回の私への朝日申入れをきちんと通読してほしい。このレベルの杜撰で主観的な申し入れで、大新聞、大出版社、大企業、いや、政党や政権が個人に賠償を要求して恫喝する社会が来たらどうするのか。私は、私への攻撃だからではなく、これを自由社会への重大な挑戦として絶対に許さない。人生と体を全部ぶつけてこの組織的暴力事件と戦う。
朝日のことは以上で終り。これから音楽を聴く。お里帰りをしてチェリビダッケの新世界の新譜、フルトヴェングラーのエロイカ1952ベルリンフィル。

随感

父の墓参から戻った。1年半前の3月、私の仕事場で国事の支えに奮闘してくれている最中、急逝した父。勝手放題生きてきただけに逆に父を亡くした後一日として切実に思わぬ日はない。今度の墓参では、天気雨の中に大きな虹が迎え入れてくれるという奇瑞があった。先祖や父の喜びをありありと感じる、大変珍しい墓参だった。私は普段そういうことをあまり感じない方なのである。
 朝日新聞への回答をほぼ終えた。内容上の論破などというのはどうでもいい。あまりにも稚拙な項目が多すぎて最初から話にならない。正論や高山正之氏にも「安倍総理を呪詛」との表現が事実に反するなどと言っているという。私にも「安倍叩きは朝日の社是」と書いてあるが社是ではないと書いてきている。反論するのも馬鹿々々しい。比喩表現を難じてどうするのか。誰も朝日の幹部社員が安倍氏の藁人形を拵えて五寸釘をぶちこんでいるとか安倍叩きが社員手帳に正式な社是として印刷されているなどと思っているわけではない。
 要するに法務部が抗議は無理筋だと判断して一切関与しなかった件で、広報部単独で杜撰な難癖を並べ立てたのだろう。
 そんなことよりも、もっと決定的なロジックを発見した。
 どうにも朝日新聞は大変な――大変すぎる失態を今回の申入れでしてしまったのではないか。
私は本格的で抜本的な戦いを戦うつもりだ。
ただし研究執筆の時間はもう削るつもりはない。
保守、国体に関して、深い柔らかい本質的な思想の営みを目指し、つたないながら研究を始めつつある。また、文藝への愛惜已まず、何とか早めに取り組みを開始したい。回りに回ったが、本格的な仕事の最初は川端康成と小林秀雄という原点回帰だな、多分(笑)

感想

本音を言へば、個人の著者として主流マスコミとの喧嘩などといふ御大層で危険な仕事など、やりたくてやつてゐるのではない。自由とデモクラシーをこれ程踏みにじる組織をどうしても放置できないといふ馬鹿な正義感でやつてゐるだけで、田舎の書斎で静かに勉強してゐたいのがいつでも私の希望だ。何としてもこの希望は実現させきるつもりだ。もつとも今日は午後から夜にかけてびつしり予定があるが。
昨日阿川尚之氏『憲法で読むアメリカ史』読了したが、丁寧に最高裁判例を追ひながら最大限読み易い仕上になつてゐる。本当に「保守」を支へるのはかういふきちんとした学問と啓蒙を心掛ける著者、著書である。ぜひかういふ本を読む方が増えてほしいと思ふ。
今日は植村和秀氏『丸山眞男と平泉澄』を読み始める予定だ。序文に丸山に心情的に共感できてもロジカルには賛成できず、平泉にはロジカルには賛成できるが心情的に共感できないとあり、読む前から大変楽しみだ。源氏物語も澪標が終り、蓬生に入つた。末摘花の巻だが原文はどういふ情趣を伝へてゐるのだらうか。昨晩はブッシュクワルテットのブラームス弦4の3番1933年。極めて快速の、変拍子性が埋もれてしまふほどの快調な演奏で驚いたが、酒が入つてゐて味識には至らぬ。今晩も聞き直すかと思ふが、今日は仲間との久々の酒席のつもりだから帰宅時には無意識に近いだらうなあ(笑)

朝日新聞よ、有難う

1 昨日、朝日新聞から6頁に渡る抗議文が届いた。著者として6頁もの論評を頂戴するのは、今日のように言論が互いに言いっぱなしの時代には稀なことだ。長文の論評をいただいたことは著者冥利に尽きる。朝日新聞よ、有難う。
2 批判の中身が荒唐無稽であった。読めば読むほど、論じれば論じる程、笑いがとめどもなく溢れてしまう。例えば「無双の情報ギャング 朝日新聞に敬意をこめて捧ぐ」という献辞に対して「事実に基づかない、弊社に対する著しい誹謗中傷」と言われても、これは「事実」でなくて私の「表現」なので(笑) それとも「ギャング」の定義について法廷で論争します? 著者にとってこうした稚拙な批判に反論する時ほど気分のいい時間はない。『アンナ・カレーニナ』の冒頭をもじれば、「賞賛の言葉は皆似たり寄ったりだが、批判の言葉はそれぞれに趣が異なっている。」なぜなら批判は個別具体的だからだ。一生懸命抗議文を拵えてくれて、朝日新聞よ、有難う。
3 昨日はマスコミ批判本第二弾『徹底検証 テレビ報道「嘘」のからくり』の発売日だった。また、森友・加計本は発売から1か月、Amazonでの売れ行きが落ち始めたところだったが、朝日新聞が宣伝してくれたおかげで売れ行き好調である。著者として本の売上に貢献してくれる存在ほど有難いものはない。朝日新聞よ、有難う。
4 私は世の朝日新聞全面否定者と違い、文化新聞としての朝日を、元々は高く買ってきた人間だ。漱石、岩波文化人らの血脈は言うに及ばず、若い頃は、いつか吉田秀和の「音楽展望」のような仕事を朝日新聞紙上で連載してみたいと思っていた。吉田さんの「音楽展望」! お向かいの小林秀雄夫人が亡くなった時のもの。中也も引き合いに出して実に美しい一文だった。ご自分の奥さんを亡くされた時の絶唱。バーンスタイン死去とチェリビダッケのブルックナーチクルスでの来日が重なった時の一文もよく覚えている。チェリのブルックナーをゴッホになぞらえた大変な着眼。朝日新聞よ、折角こうして縁ができたのだ。喧嘩が一段落したら文化欄に書かせてください。そうしたら改めて言うことになるだろう、朝日新聞よ、有難う。
5 私の本で最も売れないのは言うまでもなく『小林秀雄の後の二十一章』だが、ぜひ抗議文を書いてくれないだろうか。「この本ではルソーに対して取材せずに書いている」「ドストエフスキーにも取材しないでドストエフスキーを論じている」「小林秀雄と福田恆存と三島由紀夫の鼎談は事実に基づかない著しい誹謗中傷だ」と。朝日新聞が抗議してくれれればベストセラー間違いなしだ。そうなれば僕はきっと築地に行ってマイクで叫ぶだろう「朝日新聞よ、本当に本当に有難う!」

お知らせ

本日、朝日新聞広報部より、拙著『徹底検証森友・加計事件 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』への、「厳重」な「抗議」と共に「謝罪」「賠償」などを求め2週間以内に返答せよとのファックスが飛鳥新社及び著者である私に届いた。出版から一ヵ月以上経っての抗議は異例ではないか。ネット上で朝日から抗議がないことへの疑念が広がってきたことへの対処であろう。
 抗議は15項目ある。
 大新聞社からのしかかるようにして15項目の抗議を受けるとは、組織の後ろ盾の全くない弱小個人の私としては大変な重圧だ。もっとも1,2調べ直して私側の瑕疵かもしれぬ点を除けば、大半は、反論を書くのが楽しみな――あまりにも無理筋の――内容だったが(笑)
 自分では虚偽見出し、明らかで露骨な事実隠蔽を数々続けておきながら、個人の著書を組織の圧力で押しつぶそうとするとは、朝日新聞の人権感覚は天晴なものだ。漱石、如是閑ら泉下の先輩らに感想を聞いてみたいものである。
 それはともかく、抗議と応酬が続き、拙著の問題性が白日に晒され、事柄が多くの国民に知られてゆくことはいい事だ。15項目の応酬を多くの人に知ってもらうことで、朝日新聞の体質、やったことは一層明らかになるだろう。

決意

私はこの二年、嫌で嫌でたまらなかったが、日本の危機に対処する為、マスコミ問題に取り組み、研究所の同志に詳細な調査を行ってもらいながら、問題提起し、戦ってきた。この秋三冊の本を上梓し、私の中でようやく問題の全貌が見えてきたように思う。
一言で言って日本の報道の暴力的惨状は、憲法マターだ。
日本国憲法の保障する国民主権への重大な挑戦であり、憲法判断によって新たな立法と社会規範と罰則を用いる歴史的な決断の状況に立ち至っていると――政治の専門家としてでなく思想家の直観として――断じたい。
近代政治学の延長にある現代政治学は、世界どの国でも、いまだマスコミを政治理論の中に取り込んでいないようだが、こんな馬鹿な話はないだろう。マスコミは第四権力だという言い方があるが、第四権力ではない。むしろ、しばしば第一権力である。法と社会的制裁からこれだけ野放しの権力など、自由社会において論外だ。
私は微力ながら政治思想、歴史、憲法学――日本国憲法学でなく、憲法という法思想を学問するという意味――の観点から取り組みながら、法律の専門家たちと現実的な方策を考えはじめたい。

偶感

なんとも体調が悪い。昨日、筑摩新書が前川喜平氏新刊を出すことを強く難じたが、筑摩書房が元々志の非常に高い出版社だつたからこその嘆きである。無論、今でも素晴しい本もたくさん出している。言うまでもなく全面否定では全くない。
しかし私の無念は狂おしい。私にとつて、文藝春秋、新潮社、筑摩書房などは、最も輝かしい名前、これらの出版社が大切にしてきた文化文藝を継ぐことの光栄こそは人生の喜びと言ひたいほどのものだつた。出版社は企業ではない。文化保守の「場」なのだ。ベルリンフィルやウィーンフィルが経営判断でベートーヴェンやブルックナーをないがしろにして、最近流行のポップスに軸を移すというようなことが、全面的な自己破壊であるのと同じく、これらの出版社が、古田や菊池や佐藤の敷いた路線、美学、基準を、芥川、横光、川端や、柳田、小林、唐木ら先人が体当たりで築き上げた達成基準を捨てれば、日本の文学の中枢が破壊されるに決まっていた。それを三十年。
 しかしどんなに怒っても失われた巨大な日本文化は取り戻せない。少しでもいい仕事をする為に書斎にこもり、後の世代に志を伝え、俊秀を生み出せる場を作るために、人生を捧げるつもりである。
 この所政治思想や近代史の読書をやっと始めたが、何しろ数年の空白がある。半年はとにかく読んでノート取り。右も左もないまま。しかし文学がどうしても欲しい。私の本当の世界をまたも後回しにするのは索漠たる思いだ。夕方5時位からは文学に沈潜したい。川端の東京の人との対比で細雪を読み始めよう。

朝日新聞よ、飛鳥新社および私にも抗議してきなさいよ

『約束の日』の時は発売数日で抗議してきたじゃないですか。今度はなぜ黙ってるの? なぜ? 教えて! 「報道犯罪」とまで題されて黙っていては、「報道機関」の「名誉」が泣きますよ。
 朝日によると「『捏造』とは、存在しないことを存在するように偽ってつくることを意味します。弊社は、関係者に取材し、文書を入手し、それらを踏まえて報道しています。」との事。お馬鹿さんですか。関係者に取材し、文書を入手しても、いくらでも「存在しないことを存在するように偽ってつくれ」ます。朝日が報じた見出しによる安倍疑惑、昭恵疑惑は全て存在しませんでした。また、それと、存在したことを存在していないように「隠蔽」することをペアにすれば、事件全部を「ねつ造」できます。論理学以前のいろはだと思います。
 あなたがたの名誉を傷つけずたずたにしたのはあなたがた自身です。いい加減懺悔しないと、今度ばかりは取り返しがつかないところまで追い込まれますよ。


承前

昨晩私は二つの大事な投稿をした。第一に朝日新聞が原理的な意味で「死んでいる」ことを書いた。
森友・加計事件は朝日の諸君も気づいていないだろうが、世界のデモクラシー史でも稀にみる汚点だ。日本社会がこの人たちを曖昧に免責したら、日本の明日は本当に暗い。
もう一つの投稿で、私はこのネタで冗談を書いた。私は不器用な人間で、座談ではともかく文章で笑ひを作るのはそんなに得意ではないが、今の日本はガサツな「正論」の応酬がひどすぎる。こんな呼吸の浅いところでデモクラシーは成熟しない。
いずれにせよ、私は威勢よく楽しく朝日新聞を批判する気にはなれない。毎日死の願望の中で、平成日本という大崩壊と空疎の塊である平成日本を生きている。
松陰も海舟も南洲も福澤も天心も鑑三も(……更にあの時代なら固有名詞が歴史に残っているだけでまだ二百人以上の名前が列挙できる)いない。私は誰と志と学問を分け合えばいいのか。……どの時代にスライドしてもこういう風に各界の傑物が数十人から百人単位で出てくるのが「日本」だったのだ。朝日どころか日本民族の死亡診断書が私の後半生の主著になるのかといふ予感が私を意気阻喪させる。そんなものを誰にも理解されずに書き続ける人生はあまりにも憂鬱だ。理屈はどうでもいい。多年の学問と心の修養で作られる「人物」という藝術品はどこへ? 
私は自らを藝術品に鍛錬しようとする志、胆力のある人とだけ後半生を生きたいと切望する。胆力、こいつは言葉が絶対に通用しない。その人のありようだけがそれを証す。

無題

「朝日新聞、死ね」が駄目だというのは分る。一方、「日本、死ね」の本歌取りだから本歌への皮肉も含むのだという足立氏の発想も分る。
しかしそうした議論を一先ずおいて、では丁寧に言い換えるにはどうしたらいいかを考えると案外難しい。
「朝日新聞、お死にあそばせ」
「朝日新聞、逝っておしまい」
「天に召されよ朝日新聞」
「朝日新聞、あの世におゆき」
「拝啓朝日新聞様。お願いだから死んでください」
「朝日新聞、昇天プリーズ」
こうして改めて研究してみると、礼儀を失せず、死を勧告する表現というのは意外に難しいものだ。シェイクスピアに頼めば機関銃のように死の勧告の麗しい罵詈雑言が飛び出すだろうが。……
しかし何はともあれ、朝日新聞が廃業に値する報道犯罪を敢行して平然としていることだけは間違いない。
そのことの社会的問責追及を辞めた時、死ぬのは朝日新聞ではなく日本のデモクラシーである。

無題

 足立議員の「朝日新聞、死ね」が怪しからんということになっているらしい。
しかし、朝日新聞はもう死んでいる。
朝日新聞はイデオロギーや史観で独自色を主張するのではなく、今年の森友・加計騒動において、半年間、事実と全く異なる偽のストーリーを紙面にし続け、組織的な倒閣運動を展開した。
デモクラシー国家においては、重大な政治案件について基本的なファクトを国民に提示するのは、主流マスコミが国民から負託された最低限の社会的責務だ。新聞が党派ごとに発行される少部数の政治パンフレットだった発祥期ならともかく、少数の大メディアが情報を独占する現代、これは不文憲法として確認され直されねばならぬ大原則だと私は思う。
言うまでもなく、デモクラシー国家では、国民の正当な代表者が議会に選出され、その多数派が国民の信任を受けて政府を構成しているのであって、正確な事実報道を元に国民の政治判断がなされねば、政治の正当性全部が消失してしまうからだ。
朝日新聞は、今年の森友・加計事件を通じ、そうした国民からの負託と信用を逆用し、全くの虚報見出しで、輿論を主導、略奪した。
これは憲法が保障する国民主権への戦後最大の挑戦であり、オウムのテロよりも遥かに隠微に広範で、根底的な国制否定の導火線になる分悪質、報道機関としての自殺そのものであった。
私の『徹底検証森友・加計事件 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』は、その死亡診断書である。
これだけ丁寧な死亡診断書を書いたのだから、後は、日本社会がこの遺骸をどう荼毘に付し、そのことを通じて健全なデモクラシーを守り抜くか、それとも処理を曖昧にして、近未来、全体主義恐怖社会を呼び込む先例としてしまうかだけだ。
この議論が暴論だというなら公開討論をやろうじゃないか。
朝日新聞の論説委員諸君よ、堂々と出てきたまえ。
と言うか……。私は静かに勉強執筆に籠りたい。思想史と文藝と両方を大車輪で回してゆきたいので、朝日に引導を渡すのはもう別の人が責任をもってやってほしいのが本音だ。全くどこまで堕ちるんだよ日本人。昭和以前の勉強ばかりしている私にはいつも言うが全く別民族としか思えない。

感想

古田博司氏著『朝鮮民族を読み解く』読了、著者43歳の処女作。やはらかい感覚で書かれ、優れた文明論だ。朝鮮民族への筆者の関心と愛情を通した辛辣な肖像画だが、最近、氏は大きく見方を変えたやうに見える。最近のかの国の有様を見れば当然だが、しかし元々大きく朝鮮のありやうを受け入れるところから出発した古田氏の考への変化はきちんと追跡しておきたい。
阿川尚之氏著『憲法で読むアメリカ史』。アメリカ史といふよりは憲法解釈を通じてアメリカ国家が成立してゆく過程の丹念な叙述。アメリカを、憲法を軸に、大統領と最高裁、連邦議会と州の力関係や立憲的な正統性の確立の過程が描かれるが、やはり成熟するまでの無理な飛躍や強引さが色々ある。デモクラシーの問題は戦後日本だけを見てゐては何もわからないが、一方で社会思想の古典だけを読んでゐても妥当な政治的な判断はできない。門外漢だが、広く渉猟する読書に入りたい。
 政治思想について少し纏めて読み、考へておかうとすると、文藝批評も並行してといふのが当面難しいかもしれない。何しろ国、国、国で読書などろくにできなかつた知的不毛を何年分も補ひながら書く仕事に入るわけだから。

寸感

大東亜戦争は終わっていないし、第二次大戦も終わっていない。それなのに日本人は馬鹿になり続けている。それもこの三十年、壊滅的なところまで。
大声でナショナリズムを呼号する人が幾ら増えても仕方ない。韓国を見ればそれはわかるだろう。学問に人生を投じる大豪傑が千人出なければ日本の未来は5年後から劇的に没落を辿る。そして不勉強でスケールの小さな馬鹿だらけの日本は何も対処できずに世界史の藻屑と消えることになる。
日本エリートは、(藤原時代を除き)学問、文藝と武士道の両立でこの国を立たせてきた。
 どちらも失って、何が残るのか。いつも言うように日本語を使うサルの国が残るだけだ。
 戦後レジームからの脱却でなく、サルからの脱却が日本民族に求められている。
 死に物狂いで学問せよ、日本人。他に道なし。

随感

昨日の夜から久しぶりに脳に負担を掛けない時間を過ごし始めた。一切の緊張から解放され、数年間「限界だ!」と悲鳴を上げ続けていた脳を暫く休める。
 私は日本の為の仕事から身を引くつもりは全くないが、今や戦うよりも、寧ろ建設を考えたい。国家百年というが、間違いなく、そこに意識的に着手しないと日本に明日はないと、この5年の死に物狂いの安倍政治支えでよくわかったからだ。
そして実は志や思いある人も皆現在に掛かり切りで、誰もそれをしていない。私はこれからそれをする。その為に、暫くどう自分を休めるかが一番の鍵となる。
本格的な研究著述の計画も毎日熟度を上げてきている。これは年季が非常にかかる世界だから、今日ここに何か書いて明日出来上がるとか、数か月でものになるという話ではない。何年もかけて、生涯かけて少しづつ進む仕事だ。毎日同じようなことを書いているようだが、深まり続けている。

感想

書斎でウィスキーグラスを傾けながら深い感慨を噛みしめ、何年も経験しなかつた安らぎを覚えてゐる。極限的な戦ひを続けた7年の最後に踏みにじられ、侮辱され、とことん痛めつけられたこの一年だつたが、激昂や攻撃の思ひを、その都度忍耐と寛容(どこかで聞いたスローガン(笑))に置き換へて乗り越えてきた。ごく少数の本当の友人だけが残つてくれた恩沢は生涯の財産だ。又、困難を突破する日々に逆に創造的な真の友を最も身近に見出せた喜びは何にも代へ難い。
隣室からは(珍しく)『田園』が聞こえてくる。初めて聞くやうに新鮮な喜びを感じる。
やつと全ての目途が立つた。
研究と執筆に静かに集中できる日も近いだらう。
古典と向き合ふ人生を軸にして、始めて、本当に日本を救ふ仕事も可能になる。安倍政権を作り、支へ、マスコミの異常性を告発することに忙殺されてきたが、衆院選圧勝により総裁三選後の満期までの政治生命が射程に入つた以上、私は愈々根つこの部分の仕事に従事してゆける目途が立つたと感じてゐる。
今週色々なことを片付けた後、来週からさうした仕事に向けて徐々に心と生活を整へてゆくことになる。日本書紀の熟読。近代日本の保守、自由主義、民主主義、ナショナリズムの代表的な業績を研究し直す。昭和文学論は、ひよんなことから川端の東京の人から始まつたが、細雪を対比として選び、毎月仕事を重ね、文藝批評としての連載先を探す。掲載してくれる雑誌があるかなあ(笑)

獅子吼、大絶叫

昨日は愛知県蒲郡市で愛知県神社関係者大会の講演。「決断の時は来た、憲法9条2項改正待ったなし」と題したが、実は、もう9条2項改正がどうこういう段階を過ぎて、日本が「国家」になる前に戦時に突入したという話。それと同時に、今年は①森友加計の虚報による倒閣運動、②安倍か小池などという荒唐無稽な政権選択、③民進党の党首独断による突如の解体など、デモクラシーの原則を全く踏みにじる白昼夢が全部安倍おろしの文脈で続いた、この無原則さは戦後最大のデモクラシーの危機だということ。我々はそれらを許した。許した、これが決定的な破滅の始まり。
これが先例になる。私が全体主義国家の上級工作員なら、もう日本は駐留米軍さえいなければ何とでも料理できると確信する一年だった。なんでこの目の前で起きている大崩壊がこんなにも皆さんの目に見えないのか。この獅子吼、大絶叫。
 講演を元にした原稿を近く雑誌に発表したい。

書評の紹介

先月の正論で対談した若手政治学者、岩田温氏が『森友・加計事件 朝日新聞による戦後最あり大級の報道犯罪」を書評くださいました。
感謝し、転載させていただきます。
現在、都心の書店などで売り切りが続出している状況が続いているようです。入荷が余りにも遅い書店などはご指摘くだされば出版社に情報を提供します。

昨日の紀尾井町会議

非常に愉しい会に育ってきていると思う。
なぜか。この会は、道喜、法悦の会だからだ。道を楽しみ、法を悦び、共に場を過ごす。政局談義もあれば和歌作りもあり、文藝や歴史談もあるが、帰するところ、それらすべて私にとっては道の学問なのである。
勿論、私は師たり得る人間でなく、浅学だが、志を持ち国家という大きな戦場で、現実と格闘しながら道を求めてきたことは間違いない。ともに集う皆さんとそれを共有する喜びが少しづつ味わいになってきていると感じる。
最近常連参加者になつておられる江田さんから二次会で「二つお願いがあります」と言われた。「一つは中朝事実を講義してほしい。もう一つは折口信夫を取り上げてほしい」と。この勉強会の内容を二十歳のお子さんにお話されると目を輝かして聴いてくれるという。
 上智大学の坂本治久教授からも、日本人の遺伝子研究と日本のイノベーションとのご研究を毎回教示され、小林隆先生の国学と私の国体、保守論と共同勉強会を立ち上げてゆく道を考えている。
 昨日は私の志のパートナーである平よおから、情報発信を軸にした事業ヴィジョンの構想を発表してもらった。
一人一人の参加者が心で感じてくれている手応えが毎回深まっている。
こうした一つ一つが道喜でなくて何であろうか。
日本を愛する人たちが心を耕す道を深め、拡げずして、誰がそれをするのか。
それにしてもみんなカラオケ、うまいな。もちろん、プロの平が自作詩の曲を歌うのは別格だけど。写真は熱唱する安藤さんと後ろで密談する坂本教授と私(笑)。

偶感

北朝鮮の現指導者はトランプ政権を完全に読み誤ったのだと感じている。現指導者はオバマ政権しか知らないできた。その為、アメリカの対北政策、国際戦略、核問題への対応を、オバマの延長でとらえて、昨年秋からの暴走を今年に入ってからも修正せずに突っ走った。だが、今年8月下旬から9月上旬の実験の後のアメリカの動きで北朝鮮はトランプ政権が現実にどう出るかを始めて強く認識したのではないか。
それは遅すぎたのか。それともまだ間に合う話なのか。それは私には当然分からないが。

備忘録、偶感

【備忘録】伊豆の自宅の整理をしてゐる。伊豆での執筆生活の頻度をあげる為だ。今朝は源氏を読んだ後、ずつと家の片づけ。20年来の混乱と苦闘――。もう打ち止めにして「私の仕事」に静かに打ち込みたい。この年末の二ヶ月、あらゆる意味でゴミを片付け、汚れを拭きとる。
これから『東京の人』について。マレックの好著『ワグナーの妻コジマ』。ベームの《トリスタン》一幕。

【偶感】今、短いものだが川端康成『東京の人』を論じる仕事に入つてゐる。これは日本近代を代表する大小説だ。川端を詩人と見做し、このやうな本格小説を「風俗小説」として蔑視する文学史的通説は完全に誤つてゐる。例へば漱石の『明暗』、有島武郎『ある女』などとは比較にならぬ優れた小説だし、谷崎潤一郎『細雪』と較べても、風俗の生き生きとした様や自在な豊かさがあつて、それでゐて人間の業を描きぬく苛烈さがある。埋もれた傑作といふ言ひ方では足りない。
私は、小林に始まる日本近代批評の子だし、その大きな成果を愛してゐるが、奇妙なことに日本近代批評の最大の盲点は自国の同時代文学の評価にある。万葉、芭蕉を始め古典やドストやジイドを始めとする西洋藝術に関する優れた批評文学はあるのに、日本近代文学は全くきちんと扱へてゐない。
近代文学史は文学思潮史であつて、傑作の歴史ではない。五重塔や布団や伊豆の踊子は暗記させられるのに、家や連環記や山の音は誰も知らない。その弊が、東京の人を全く評価できないまま埋もれさせるといふ大失態の原因だらう。
常識を取り戻せと言ひたい。文学史は傑作の歴史であるべき。私がやるからまあいいや。