FC2ブログ

【ちょっと待ってほしい】

【ちょっと待ってほしい】というのが、朝日新聞の口癖だそうで、私も使わせてもらう。肝心なことを忘れないでおきたい。
 自著について押しつけがましいことを言いたくないが、この戦いは私個人に関する戦いではないので敢えて言う。一人でも多くの方に拙著を「きちんと」読んでほしいのである。
拙著は朝日新聞が主導してありもしない「安倍疑惑」を捏造したという「事実」の証明をしている。無論、私による「事実」の「証明」に異議や問題点、不充分や行き過ぎの指摘があってよいが、「捏造」によって政変を起こそうとした民主主義の否定という朝日新聞の圧倒的な犯罪行為の証明は、十全・完璧にできていると確信している。第九交響曲に和声進行や楽器法の誤りや問題があっても、全体としての交響曲の構造や感銘に影響がないように、拙著も「朝日新聞主導の安倍疑惑捏造という政治犯罪「事実」の証明」という全体構造の論証については、絶対の自信がある。大雑把な「飛ばし」は一カ所もない。略筆箇所はあるが、水戻しすれば詳細な裏付けの証明に戻せる。拙著の信憑性についての認識を良識派の皆さんが確信をもって共有していない限り、朝日の訴訟の途方もない理不尽さが理解され得ないはずだ。
大嘘つきが、自身の嘘を丁寧に研究・論証・考察した書を訴訟した――今回の不正の/f第一の核心はここにある。
スポンサーサイト



深刻な本質はどこにあるか

今回の朝日新聞の訴状は、極めて深刻な内容である。事実そのものでなく、事実をどう表現するかに関して、ここまで多数の項目を裁判所の判断に委ねるというのは、自由社会の自己否定に他ならない。全項目とも言論戦で決着が付くものばかりであり、私は言論戦に応じているのである。
本件の裁判所の扱い方次第では、日本の言論が事実に著しく反する記述による名誉棄損の問題ではなく、事実についての判断や推論や感想の表現に関して、金と権力のある会社や機関が個人著者を訴え、裁判所の判断によって表現の幅を大きく規制されるという、明治以後最悪の言論統制社会を招きかねない。大日本帝国下の言論は基本的に➀皇室と②共産主義と③猥褻表現を除き、今回のような表現の自由を明らかに侵害するレベルの根源的な検閲はなされていないはずだ。政府批判は戦前も盛んであり、軍閥批判も昭和10年前後から難しくなるが、それ以前にはむしろ軍人の肩身の狭い時代が続いていた。
 私は訴状を法律家とは別の見地――つまり歴史研究を行いながら思想文学の営みをしてきた一思想家として――新年あけに丹念に研究しようと思う。
 私一個の問題でもなく、朝日新聞の横暴を難じて済むレベルの話でもないのではないか。
日本の言論の自由の歴史を大きく歪める大不祥事になりかねない。
左右を越えた有識者が、朝日叩き、小川擁護というレベルではなく言論の自由に関する深刻な事件として声を上げてほしいと思う。
色々な方からご心配をいただいているが、私は失うもののない人間だから、ご心配には及ばない。奪われ続けている勉強時間以外に本当に欲しいものは何もありません。

朝日はこれがやりたかったのです

朝日新聞は今朝の紙面で大きく拙著への提訴を扱っています。「根拠なく誹謗中傷」との大きな活字に読者の目が行きます。私の側の言い分を一度も載せずに丁寧な私の回答も都合よく私が不誠実に見える引用をしてこの紙面です。本当にファッショそのものですね。
 まあ端的に言えば、拙著によって朝日新聞の報道が本当に大丈夫かと心配していた多数の読者や朝日ファンに対して「朝日は裁判を起こし、小川をここまでこき下ろせるんだから、多分朝日の方が正しく、小川は朝日に絡む右翼のごろつき評論家なんだろう」と安心させるための紙面です。
 はっきりいって裁判そのものよりこの紙面で多くの読者を安心させたかった=騙したかったのでしょう。
 が、この紙面そのものが大変な代物です。訴状中身の惨状は類を見ません。彼らには社会的な責任を取らせます。朝日は自滅へのパンドラの箱を開けてしまいました。
平成29年12月26日 朝日新聞 

寸感

今朝は早朝に起きて散歩、掃除、神事。数年ぶりにやつと生活らしい生活を取り戻しつつある。朝日新聞への今朝の段階での回答を作成した。後程公表する。朝日新聞は裁判に逃げたが裁判所など全く主戦場ではない。裁判は裁判の論理に徹して対処する所存だが、私は心ある皆さんと共に、これを社会問題として全国民注視のテーマに持ってゆくつもりだ。これは裁判事案ではなく、朝日は架空の総理スキャンダルを捏造したか否かという大社会問題なのだ。
さて、これから月刊誌の原稿執筆。だいぶ難渋している。
源氏物語は絵合に入つた。マイネッケの読み進め。中西―西尾対談の読了を目指す。とにかく読みたい本が山積しており、書きたいテーマも山積している。

朝日の訴状への初見コメント

朝日新聞社は、拙著『徹底検証 森友加計事件 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』の中身を巡って、私と出版元の飛鳥新社に対し、5000万円の損害賠償請求を提訴しました。今後の対応の詳細は明日以後、出版社および顧問弁護士と協議しつつ詰めてゆきますが、以下、訴状の初見の印象からの簡単なコメントをまず発表します。
執行役員の言葉として以下が掲げられています。
「小川氏の著書の事実に反した誹謗・中傷による名誉毀損(きそん)の程度はあまりにひどく、言論の自由の限度を超えています。建設的な言論空間を維持・発展させていくためにも、こうしたやり方は許されるべきではありません。やむを得ず裁判でこの本の誤りを明らかにするしかないと判断しました。」
笑止千万とはこのことです。私の言説が言論の自由の限度を超えているというなら公称650万部の新聞社は、たった9万5千部しか出ていない本のかよわい一著者に5000万円の賠償請求をするのではなく、650万人の読者に向かい、小川の非を鳴らし、朝日新聞の報道がいかに正しかったかを説得しなさい。それで私の社会生命、言論人生命は終わります。私が事実に反した誹謗中傷本の著者として社会生命を失えば、朝日新聞社は言論機関として自己の正当性を堂々と証明できるのです。
裁判所に判断を委ねる必要など、社会的に圧倒的強者であり、自説を証明できる膨大な紙面と圧倒的な読者数を誇る朝日新聞社の取る道としてあ�ってはならぬ最悪の邪道と言う他ありません。
それよりも、朝日新聞の再三にわたる「言論の自由の限度を超えた」捏造―珊瑚礁事件、従軍慰安婦、吉田調書、森友加計捏造報道などなど―についての、今尚決して清算、克服されていると言い難い損害を出来る限り客観的に算定し、日本国民の総意としての損害賠償を朝日新聞社に徹底的に、「最終的且つ不可逆的に」国民の総意として求める時期が来たのではないでしょうか。とりわけ従軍慰安婦報道については、日本国内では社会的な事件となり全社的な謝罪をしたにも拘らず、国際世論の鎮静に向けて朝日新聞は全く努力せず、世界での慰安婦問題の拡散は留まるところを知りません。この日本国家をあげての損害を金額算定すれば天文学的数値に上るでしょう。  
そうした自社の「言論の自由の限度」をはるかに超えた現況をなかったかのようにしておきながら、自社に批判的なドキュメンタリーについて、紙面を使っての検証や反論のプロセスを一切省き、表現の細部ばかりを争点にしていきなり巨額の賠償請求訴訟を起こすことは、自由社会を破壊する言論弾圧に他なりません。
しかも、この訴状は、私の12月5日発出の朝日新聞社への回答をほぼ全く踏まえていません。
〈千葉光宏・朝日新聞社執行役員広報担当の話〉
 「小川栄太郎氏の著書には、森友・加計学園に関する朝日新聞の一連の報道について事実に反する記載が数多くありました。本社には一切取材もないまま、根拠もなく、虚報、捏造、報道犯罪などと決めつけています。具体的にどう違うか指摘し訂正を求めましたが、小川氏は大半について「私の『表現』か『意見言明』への苦情に過ぎません」などとして応じませんでした。」
馬鹿を言うなという言葉を吐くのも虚しい気持ちになります。私は朝日新聞申入れの「具体的にどう違うか指摘し訂正を求め」た項目に全て丁寧に反論しています。その事実をこの訴状及び千葉氏のコメントはほぼ完全に隠蔽し、私との言論戦から逃げて、まるで私がろくな回答をせず不誠実な対応をしたかのような印象操作の上で、訴訟を挑んできたのです。
その上、前回の申入書と同様、個々の訴因がばかげています。一例のみをあげれば、私以外の多くの方が悪質な捏造として批判している5月17日付の「総理のご意向」スクープの黒い枠で文章を覆い隠した写真について、「新聞の一般的な手法」だなどと、常識的な感覚では理解に苦しむ開き直りをするなど、私が朝日新聞主導の「捏造」と主張する大筋の主張を覆し得ない細部表現への無理筋の抗議に終始しています。
私は今後も全くひるまずに批判すべきは批判し続けますが、今回の訴訟を見て、言論人の中には、朝日新聞を批判することが訴訟リスクを含むと考え、批判を手控える方も出てくるのではないでしょうか。また他の大言論機関がこの手法を模倣すれば、日本は事実上、マスコミ、大企業による言論封殺社会になりかねません。一命を賭しても、今回の朝日ファシズムを容認するわけにはゆきません。
裁判は当然徹底的に受けて立ちますが、裁判以外の広く開かれた日本社会で、「森友加計は朝日新聞の捏造か否か」、「拙著が描く朝日の報道犯罪は妥当な論評と言えるか否か」、「今回のような訴訟は言論弾圧であるか否か」などを、朝日新聞が社会的に決して逃げられない形で訴えてゆく所存です。以上

さて…

いい天気だ。天気がいいのは結構なのだが、朝日新聞がなしのつぶてである。年始に正式な申し入れをして、文面を公表しようと思っている。朝日新聞が黙っているわけにゆかない状況、黙っていては大変な目に合う状況を作るつもりだ。
 が、日本の危機の中で、私がよりによってメディアとの戦いに忙殺されているようでは、この国は本当に間に合わない。足りない智慧ではあるけれど、国家の経綸と文藝に集中したい。前から絶体絶命の危機のみに集中して取り組むべきだというのが私の国家の仕事の鉄則であった。当初それは安倍総理再登板にのみ賭けるという方針、次はテレビに絞ってのマスコミ批判の路線を作るという方針。今の朝日新聞との喧嘩は正直なところイレギュラーだが、存外国際世論や国際リベラルとの世界の保守派との共闘を考えると球筋は正しかったかもしれぬ。
 しかし、私は運動家ではないので、日本論、人類における政治の問題を足かけしながら探求する仕事と藝術の仕事が日々の最優先事項だ。今日の読書は西尾幹二氏、中西輝政氏の最新対談『日本の世界史的立場を取り戻す』、マイネッケを引き続き読む。「世界史的立場」 やっとここに至ったか!! この言葉は京都学派の大東亜戦争時の用語。その契機は開戦直前に行われた小林秀雄、河上徹太郎、林房雄らと京都学派の座談会『近代の超克』である。ずっと私の懸案だったテーマが、愈々日本の明日があるかないかという重大な国家的な緊急テーマに躍り出た。
なぜ緊急テーマと化したかと言えば中西氏が30年近く前から国際政治上、日本の取るべき針路、構築すべき知的課題を極めて的確に出してこられたのに、日本の知識人や政治家が全くそのテーマに取り組まず、ここまで追い込まれたからだ。中西氏が安倍総理批判に転じられたのはつくづく残念だが、その知的営為は―極端な安倍批判部分を除けば―今尚最も傾聴に値する。西尾氏の『国民の歴史』以来の知的業績も、文字通り営みの全てが「近代の超克」の試みで、小林や福田恆存が手付かずだったところに踏み込んだ仕事だ。私の領域も全く重なる。マイネッケ辺りから読み返しているのも無論そのためだ。読書時間が欲しい。その一事を巡って毎日の苦悩、慨嘆が続く。

日録

勉強に軸足を置けるようになってきたが、あれもこれも読みたいと欲張る気持ちを自制しながら一歩一歩踏みしめるように仕事をしている。今日はマイネッケの続き。源氏は関屋が終り絵合せ。1年で17帖しか進まないのは心許ないが、平均すると3日に1度くらいしか読めていないのだから仕方ない。マイネッケ、トレルチ、ヘーゲルなどの後、1月中旬には丸山眞男に戻る予定だ。一方、何とか日本書紀の読みに入りたい。が、焦らないでおこう(笑)。音楽評論の完成を急がねばならないのだから。今日は月刊誌の原稿準備と音楽批評の内「古楽イデオロギーとは何だつたのか、あるいはクラシック音楽成立の核心的契機」。ドイツ語の面白くない論文の題名みたい。

男と女がいる豊かさ、男と女がいる宿業2

一言で言えば、男がエゴイスティックに女を性の道具とみるのが言語道断なら、女が男からの求愛や親愛を、気に入らなければセクハラだと社会的に糾弾するエゴも言語道断である。男が言い寄らねば男女関係は成立しない。これは生物学的な条件だ。どこまでが許されるかどうかは道徳と良心と互いの人間関係の調整の問題である。加減の問題だ。加減の分からない人間を古来馬鹿と言う。
勘違いして女に不快を味わわせる男も、一々角を立てる女も馬鹿である。もしそれ以上の暴力的、脅迫的な要素が加われば、それは犯罪である。
この加減の部分と暴力の合間に線引きの難しいところが生じる。性は当事者らの間で秘められている。秘められた関係に社会的な基準を適用するのは不可能だし、それは文明の否定である。
ある女性がAに手を握られたら幸せや快楽を感じ、Bに手を握られたら不快で我慢ならぬとしてもまだ話の決着はつかない。不快だったはずのBにさらに強引にキスをされたら不思議なことに欲情が高まり、恋愛感情が芽生えるかもしれない。手を握るだけではBへの不快感が極度に募り、ノイローゼになったのが、その先に踏み込んだら逆に関係が進展するということがないとは限らない。強引な男が好きな女もいれば、強引な男が絶対に嫌な女もいる。しかし、誰もそんな看板をぶら下げてはいない。本人さえ気づいていないかもしれない。
 女がミニスカートで男の下宿に遊びに来て夜12時まで二人きりで酒を呑んでいる。男は終電も気にせず飲んでいる女がその先に行くものと思い事に及ぼうとしたら急に女が怒りだした。これはどちらのセクハラなのか。逆に、女が期待していたのに、男は今の時代の風潮を恐れ、どこまでも紳士的な対応に終始、女は自分はここまで大胆にふるまってさえ男の気持ちを引かない魅力ない女だと絶望し、以後、恋愛そのものをあきらめてしまうかもしれない。そうならば「紳士」が一人の女性の「性」を殺したのである。
 基準もなければ確実な法則もない。
 男女が思いやりと愛情を持ちあいながら、互いの感情を調節しあい、計りあう、それでも四六時中計算違いを起こし、予想できない出会いと別れと愛憎が繰り返される。
 なぜこのうまくいってもいかなくても豊かであるはずの男と女の関係を、喜びと悲しみの潤いある世界から、人権だ迷惑だという「社会的糾弾」の生贄にするのだろう。
女の性的魅力はそれを見ているだけで手に入れられない男にとっては暴力であり、だからこそ男の性欲は女に対して動物時代から暴力的に発動されてきたのだ。そうしたオスとメスの征服関係から、男と女の恋愛なる優しい感情を作り上げてきたのは人類の長い文明史である。
 女の魅力がまず男への―生物学的に必須な―パワー=暴力だ、それへの男の反応をどう洗練させるかが、人類の進歩の決定的な因子だった。
 性を男性の放縦に任せてはならないが、女性の男性への報復の道具に使ってもならない。何度も言うが性は相互に暴力的な影響力を持つ。だからこそ調整や加減の問題であり、社会の成熟、文化の力量の問題なのだ。その際、女性の性的な影響力の大きさをどう慎むかが本来先立って考慮されるべきであって、伝統社会はどこでもそうしてきた。女性の性を大胆に晒しておいて、男に我慢と自制を強要するのは無理筋だ。男性の性欲は行為に先立ち、女性の性欲は条件が満たされた時に遅れてやってくる。それぞれにそうである意味があるのだ。その意味を活かすのか、反目や非難や報復に用いるのか。
 性を巡るフェミニズム狂騒曲に終止符を打ち、社会的な智慧を取り戻す必要がある。

男と女がいる豊かさ、男と女がいる宿業 1

どこまでが恋愛や親愛の表現でどこからがハラスメントなのか、そういうことを当事者同士で調整してゆくのが、社会や人間の成熟、智慧というものだ。このテーマは皆自分の体験に引き合わせて考えるから、同じ言葉でも意味するところが天と地ほども違ってくるので論じるのは難しいが、少しだけ試みてみよう。
 まず社会の性道徳がこんな風に解体していて、何がセクハラだ、笑わせるなということだ。男も女も性的に裸のまま、無防備で非倫理的な空間に放り出されている。大人が若い男女を守るという日本で長く続いた社会的な智慧は解体し、自由恋愛という名の危険な放縦の先に、様々な売春と性的サービスが素人の自主参加の形で溢れている。
極端に露出度の高い服を着て満員電車に乗る女性などそれ自体が男にとっては性的暴力だが、そういうことを禁じたり窘める常識もない。
性を道具にして金を稼ぐ素人が無数におり、彼女たちは男という生き物に絶望し、軽蔑しきっている。軽蔑された男は女を軽蔑しかえそうとして、さらに道具のように扱う。
男の性的モラルを確立し直そうにも男の抑圧と萎縮が進み、強い男がモラリッシュに女を守るという長年当り前だった社会常識一つ再現できない。
男女関係について女は口を開けば居丈高で男を見下す口をききたがり、男は卑屈で逃げ腰な事ばかり言う。どちらも全く不幸な話ではないか。女が控えめで智慧深い美しさを持ち、男の良心を信じ、男は男として立てられ尊敬されるがゆえに女をぞんざいには決して扱わない。日本人が普通にできていたこうした性的関係が崩壊している。そこにセクハラという偽道徳が魔女狩りの道具となって持ち出される。
世界も日本も長年の文学伝統=文明的な人間観を失い、男と女のあり方の深い様々な知恵を失い、男女とも荒んでゆく。この50年の西洋発の思想の汚れは尋常ではない。

大迷惑

世界的指揮者のジェームズ・レヴァイン、シャルル・デュトワなどが何十年も前のセクハラで糾弾されている。アメリカ発でどんどん世界の風潮となる信じ難い馬鹿話だ。ならトスカニーニやフルトヴェングラーはどうなる。バーンスタインはどうなる。稀代のナンパ師トスカニーニ、コンサートの来場者を物色しては一夜妻にしていたフルトヴェングラー、両刀使いのバーンスタインの汗みどろの抱擁はどこまでが音楽家としての感激でどこから性的なものになるのか。けつを狙われた男弟子は枚挙にいとまあるまい。そんなことは犯罪でない限り当事者同士で何とかしておけという話。
西洋人というのは、正義と暴力、創造性と極度の馬鹿を共存させ、自分たちの優越性は自覚していても、自分たちがどれほど愚かかという方はどうしても見えない。彼らは至高の価値を生み出せる代り、人類の迷惑でしかない数々の愚行をも繰り返す。
 ミケランジェロ、シェイクスピア、ベートーヴェンは結構の極みだが、宗教戦争、植民地征服、奴隷貿易など西洋が行ってきた数々の人類史上最悪の極悪非道を、西洋文化の素晴らしさで相殺するわけにはゆかない。
暴力、魔女狩りが、彼らの場合正義の理屈と必ず結びつく。
嫌な思いをしたと告発したら、それがそのまま通るなど、完全な狂気でしかない。私も不都合な女から暴行を受けたと主張して涙の記者会見をやってみたいものだ。糾弾したい女なら何人もいる。(そんなにいないか(笑))
 白人と有色人種、キリスト者と異教徒、富める階級と貧しい階級、それに加えてこの50年、男性と女性。対立を無理に作り出し、正義を主張しながら不正義と分類された側に徹底的な暴力をふるう。この発想こそが人類の敵だ。まあ、そうは言ってもたかがセクハラ。奴隷や共産革命に比較すべくもなくスケールは極小になった。『西洋の没落』そのものだとうべきなのだろう。だからこそ中国の台頭の前に、日本の思想を世界に向けて確立しないと大変なことになる。

朝日の捏造をうやむやにしてはならぬ真の理由-文章後半が大事です

朝日新聞への私の回答を「承服できず、対応を検討する」と言った朝日新聞が2週間を超えても何の対応もしてこない。
 私には居丈高に「賠償を要求する」、「2週間以内に真摯に回答しろ」と言ってきた朝日が、私の「真摯な対応」から2週間経っても何も言ってこないというのは、これは一体、どこまで非常識なのだろう。
 朝日新聞は森友加計事件を捏造したか、しなかったのか。
 これをうやむやにすれば、日本はマスコミの嘘による政府転覆運動を容認する社会だということを自ら証明することになる。それは近未来、日本が中国に政治主権を奪われる予行練習となるであろう。
 私がなぜこの件を「戦後最大級の報道犯罪」と言うかと言えば、これは主権簒奪プログラムにすぐに転用可能な、極度に危険な現象だからだ。慰安婦問題の日本の国際的名誉棄損とは異質の、はるかに直接的な危険がここにはあるのだ。
 もし本当にこの問題で日本社会が戦う気がないなら、私は近い将来日本を立ち去る。自由社会であることと日本の偉大な精神伝統を二つながら失う馬鹿な祖国には耐えられない。無論、ぎりぎりまで少数の同志と学問もし、戦いも継続する。
 評論家は多いが、本当に危機が見える人間の少なさに閉口する。朝日の廃業が目標ではなく自由社会の防衛が目標だ。それには自分たちの社会がさらされている危機を自覚できることこそが一番大切なのだ。朝日が怪しからんから叩く、ここにとどまっていては真の敵から身を守れない。私が今何の闘いを戦っているかを何とか正確に分かってほしいのだ。本当に失ってしまう近未来を越させないために。

感想

Voice1月号【大国日本の選択】は啓発的だ。まだ一部しか読めていないが、中西輝政氏「中国と日本の百年マラソン」は特に必読中の必読。中国を直視せず、いたずらに蔑視しようとする議論が保守論壇にあまりにも多過ぎる。中国は覇権国家として「思想」を表明し始めている。日本の保守派は朝日、慰安婦、南京などを巡るもぐら叩き―は現時点で必要なので仕方ないのではあるがーではなく、思想の建設と、建設的国家方針の起案とに直ちにかかるべきだ。時間はかかるが私は何とかない時間と智慧を絞って取り組み始めている。
他に佐伯啓思氏「AIに奪われる成長」、日高義樹氏「核は「使える兵器」になった」も必読と思う。一方、拙論「なぜ私は朝日と闘うのか」は日本の国家主権や自由社会の喪失が現実に可能な状況に入っている事を指摘している。

随感

私はどうも恵まれてゐるやうに誤解され易いらしいが、天下の素浪人、腕一本以外明日の知れぬ無産者だ。資産、地位、立場、名声、権力、何一つない。ごく少数の家族、志の友を除けば、確かなものなど何もない。芭蕉が漂泊の思ひやまずと言ひ、露伴が住処に蝸牛庵と名付けたやうに私もただ風狂の徒たるのみ。よくまあここまで何とか生きて、社会的な意味ある幾つかの仕事をしてこれたものだ。
一重に縁の力、神力あつてのこと。天に生かされてゐるだけで、天命果てれば人生そのものもそこで終りだし、それでいいと思つてゐる。ただどうしても勉強だけはして死にたいものだ。死の想定を早めに持つてきてどうしても勉強しておきたいことを先にすることが今の私には必要だ。一番勉強したいことは結局、文學と最も古い時代の思想だ。万葉、古今、源氏、平家、新古今が存分に勉強でき、論語、老荘、史記とプラトンの主要著作に三昧でき、ゲーテ、バルザック、日本の近代文学の読み漁りができれば、何もいらない。贅沢過ぎるか呵々。ノルマを課す生き方を転換できるかどうか。

日録

昨日は月刊誌の為の原稿に頭を悩ませた。やっと勉強し始めたが、多忙で中断が多いので、軌道に乗るまで原稿の方針を定める苦労がありそうだ。源氏蓬生を読了。これも時間がかかり過ぎるのは中断が多いからだ。マイネッケの読み進め。昼間は産経新聞社、夜は百田尚樹さんのニコ生に出演した。その後夜更けまで神楽坂でバノン氏とのやり取りを受けて新たに見えてきたことを志の上のパートナーと議論。まあ大仰なことは言わないでおこう。いずれ結果で出してゆく。今日も多忙だが、朝から注文原稿。源氏、マイネッケ、丸山を読み進めたい。

日本における第一回JCPAC

日本における第一回JCPACでスティーブン・バノン氏、木村太郎氏とのシンポジウムに参加した。TPP離脱について、木村氏も私も、中国に対峙して自由貿易圏を保持する上で必要な条約だったのではないかと言う趣旨の疑問をバノン氏に疑問をぶつけたところ、率直な回答があった。トランプ政権は、強い二国間同盟を積み重ねてゆくことで、中国と対峙し、アジアでのプレゼンスを保持したい。TPPはNATOと同じで、多くの国が依存してくる、アメリカ自身を守ることも必要だという見解だ。技術的な問題以前を語っている。
自由主義圏の保護者アメリカという位置づけは財政上も国民感情上も最早不可能であり、経済と安全保障の自由の弧を二国間関係による強者同盟の累積として築いてゆくという方針に異を唱えることは難しい。これは損得や技術論の問題ではなく、まず何よりも道徳の問題だ。
こういうと青臭い議論と思うところが日本の現在の保守派の駄目な所だ。宗教、道徳、自尊心こそが世界を動かすエネルギーであり、熾烈な損得計算とそうした精神的価値が切り離せないからこそ、世界は混乱し続け、混乱は又創造的なエネルギー源でもあり得るのだ。数千年、「世界史」はいつもさうだつた。
 日本は大半の時代そうした「世界史」とは距離を置いて高度な文明史を紡いできたが、大国であることを引き受けるなら、もう一度自覚的に「世界史」に参入し直さねばならない。少なくとも私は「大国日本」を引き受けたいという夢の下、全ての言論、文藝活動を行ってきた。
類稀なプラグマティストとして多くの奇跡を起こしてきた安倍総理だが、安倍政治を後半戦で本当に活かし、最大効果を達成するには、寧ろ私ども民間の言論人が、氏が封印してゐる理念をどう思想の営みとして紡いでゆくかが問われ、また、そうした議論の必要性を総理側近に理解させる必要があると考えている。
 思想の営みがないところに理想なく、理想なければ国家目標や羅針盤が定まらない。
 日本に国是なきことを省ず、アメリカに注文を付けたり中国を批判するのは恥ずかしい。
私は今年一年劇的に自分の本来の仕事場に足場を移し続けた。来年に向けて、私は日本の守るべき価値、日本の理念についての思索に更に軸足を置く。
JCPAC 

不思議だなあ

朝日新聞は、私の回答に対して、「承服できないので、対応を検討する」と言っていた。その後どうなったのだろう。
 裁判起こして、世界中に恥をまき散らすのが一番適切な対応だと思う。しかし裁判を起こしても、公開討論の要求は取り下げない。また、報道を検証する第三者委員会の立ち上げ要求も取り下げない。裁判を逃げ場にはさせない。悪い事をした人は社会がきちんと裁かねばならぬ。この原点に私は固執する。
 今日はJCPACで朝日や日本のマスコミの問題を世界に向けて告発します。私の講演は日本語ですが、後日英語字幕を付け、世界のネットに流布したいと希望しています。自由社会とされる日本で世論を決定するマスコミ言論が国民から奪われ、対処する手段さえない実態は世界に認識してもらうべきテーマです。私は絶対に許さない。
 昨日は吉本隆明『丸山眞男論』読了。丸山その人よりずっと読み応えがあった。江戸思想のスピーディーな総括は特に見事だった。ただ共産主義を論じるとなると途端に愚かになるギャップに改めて驚く。が、それも吉本の誠実というものか。私自身の蔵書と思ったら今付合いがないかつての親友の蔵書だった。私の汚い書込みでなく彼の定規で線を引く丁寧な書き込みを目にしながら、人生で出逢った最も頭脳優秀なこの男を無量の感慨で思い出した。源氏は蓬生が後少し。
 クレンペラー指揮、バッハ《ロ短調ミサ》を全曲通した。140分。クレンペラーは全クラシック作品でこの曲を最も偉大な音楽だと言った。マタイ、ミサソレ、ブルックナー第九、指輪などがあるのだからこの曲だけを、というわけにゆかなくとも、クレンペラーの取り組みはそういう言い方を肯定したくなる壮大で深淵な解釈。圧倒された。クレンペラー論の起稿に辿り着くために集中したい。
 今日は時間があまりないがマイネッケと蓬生。
 私はこっちがやりたいだけ。朝日には真人間になってくれと言う以外何もない。邪魔しないでくれよ、私の本当の仕事の。

日録

昨日は長時間足立康史議員と対談させていだいたが、相当本質的な議論ができた。国会のアホバカな状況もご著書より具体的に伺えて興味深かった(笑)が、問題意識も方法意識も第一級の国会議員だという印象である。
 今朝は、明日のJCPACの講演準備。最終的にスティーブ・バノン氏、木村太郎氏、私の三人のセッションが12時から1時間半ほどとなる。雑談風なものにせず、メディア論をきちんとお話しようと思う。
 これから丸山眞男論ノート口述の続き。源氏蓬生。何とか今日読了を。吉本隆明『丸山眞男論』。吉本は前提にマルクス主義的な容認できない錯誤や戦前史観があるが、しかし丸山よりは遥かにずっと物が見えている。しかし話を難しくし過ぎる。丸山の議論のボタンの掛け違いは一歩目にある。近代日本の思想家や文学者を苦しめた眼高手低――見識や才能は高いのに散文技術や知識の伝統・層・蓄積が少ないという悩みは丸山にはない。彼の場合眼がそもそも高くないからだ。問題は丸山が東大アカデミズムの「教祖」になった事だ。低すぎる出発点を今日まで後生大事に抱えている。一歩目が丸山でも積み上げて乗り越えてゆけばよかった。学問や藝術は反逆児しか伝統を形成できない。先生の忠実な弟子などという間抜けは学問では邪魔なだけ。
もう一人の教祖小林秀雄の場合は彼自身の「高さ」もさることながら、直弟子世代、孫弟子世代ともに師匠に全く忠実でない反逆者だらけだったので豊かな山脈を昭和文学に齎した。孫弟子世代が故江藤淳、桶谷秀昭氏、西尾幹二氏、長谷川三千子氏らだ。数は乏しかつたが、一人一人の内実は豊かな継承と言へる。その後、突然全てが枯れ果てた。私は荒野に植林を始めてゐるが、菲才非力孤立。
さて、吉本を読了したら、マイネッケ。そしてクレンペラーの『ロ短調ミサ』を聴けるかなあ。第一部だけになるか。音楽と全力で対峙する体力気力が戻らない。政治・社会的な行動は消耗する。途中で誰かと呑んだくれたりしtたくなる誘惑に打ち勝ち、家に自分を縛り付けて勉強の一日にしよう。

感想

会田弘継氏『追跡・アメリカの思想家たち』を読了し、衝撃を受けてゐる。今年最も圧倒された読書だつたと言つていいかもしれない。アメリカの戦後保守の大きな支柱を最初に打ち立てたとされるラッセル・カークの訪問記から始まり、目配りの利いたアメリカの戦後思想家らの生き生きした評伝で、私のアメリカ思想への不明を恥ぢ続けるのみだつたが、最後に筆舌に尽くし難い感動が来る。
フランシス・フクヤマの章では、フクヤマの思想の紹介から、フクヤマの祖父が河田嗣郎という京大の農業経済学者で、若き日には徳富蘇峰と、そして生涯にわたつて河上肇と親しかったといふ話。この河田の蔵書『資本論』初版がフクヤマの座右の書で、それは河上も手に取つたに違ひない、それが今フクヤマの、非マルクス的だが、ヘーゲルの発展的な理論形成としては同根の思想を作り出す原点にあると得心させる描き方は、深い感慨抜きには読めなかつた。(私はフクヤマの近代肯定論には批判的だがそれは今後丁寧に論じてゆくつもりだ)
そしてエピローグ。ここは本当に参つた。漱石『こころ』の翻訳者マクレラン、江藤淳との交友から語り始められ、マクレランの師がカークとハイエクだつたこと、マクレランの博士論文が漱石で、ハイエクにその理由を説明する為に訳したのが『こころ』だつたこと、ハイエクはこの小説に法外な程の感動を示したといふ逸話が語られる。私が高校時代最初に買った英語のペーパーバックは何とこのマクレランの『こころ』だが、不勉強な私はこの英訳を積ん読しかしてゐない恥づかしさだ。
会田氏がこの日米の壮大な知的交流を描きながら、その最後に江藤の『南洲残影』、それも蓮田善明の歌碑を江藤が田原坂で見出したエピソードで閉ぢるに至り、涙の噴き出るのを禁じ得なかつた。
カークに始まり、蓮田善明で閉ぢられるアメリカ思想史。
会田氏の文章は平易だが、学問を真面目に重ねた人の文体のみが持つ豊かさが鳴り響いてゐる。
 それにしても、日本の戦後思想の左右ともの貧しさよ。
江藤のいふ「ごっこの世界」の中に安住してゐる人間に思想など必要ない。格闘すべき問題はアメリカに処理してもらつてゐればいい。その緊張感のなさへの絶望や焦燥のない戦後の全ての文章は紙屑に過ぎない。
が、幾ら焦燥しても物を作り上げる事にはならぬ。
私は、言葉といふ「物」と格闘し、「日本」を彫り出してみたい。
思想が世界を動かす。日本の潜在的な思想量は大変なものだ。これは世界史的な意味がある。近代欧米の行き詰まり、グローバル化によるニヒリズムと暴力、中国の真の思想なき台頭――だが、現代日本の思想家や文学者がそれをきちんとした言葉にしてゐない。昭和に大きな成果を上げたが戦後矮小化し続け、昭和の達成の先を描く仕事が殆どなされてゐない。
微力だが毎日積み上げてゆかう。このやうな小文もさうした積み上げの一部である。

感想

昨日は伊豆の家で色々雑事があり、殆ど勉強できなかつた。それでもマイネッケ『国家理性』の序論は読めた。国家といふ人類的な本能を前提としてゐる。正しい前提だ。ここを崩す議論―グローバリズム、ボーダレス国家、脱近代国家―は端的に人類を不幸に陥れるだけだ。いい加減無意味な所に知力を使う、マルクス主義以後のヨーロッパ諸学の馬鹿げた伝統こそ終りにしてもらいたい。その後はクレンペラー(1968)、カラヤン(1988)、フルトヴェングラー(1952)のベートーヴェン第4の1楽章。クレンペラーのハイドン《オクスフォード》を聴き、論の構想を立てつつある。クレンペラーが最後に達した域は神業だ。
今朝は会田弘継氏『追跡・アメリカの思想家たち』を大半読む。平易で深くバランスもよく幅広い状況の説明まで行き届いた名著だ。巻末を見て愕然とするのは今世紀後半のアメリカ思想の主要著作の翻訳が殆どない事だ。レオ・シュトラウス、フクヤマ、ロールズ位まで。
最大同盟国にして戦略的にパートナーシップを描き換へ、精神的な独立と独自性に戻るべき日本保守派のアメリカ思想理解がなければ、何からどう独立しろといふのだらう。欧米列強から独立を守つた明治の欧米理解は、最初にピークが来てゐる。いふまでもなく福澤、内村らから鴎外、漱石、荷風の世代までだ。日本といふ国では自立の思想はいつも外来思想との対決によつてなされる。
日本の文学、思想の仕事に本格的に入る準備をしてゐるが、日本人できちんとやつてゐる人がゐないやうだから、微力ながら自分で、アメリカとの思想的対決をしてゆくしかなささうだ。政治的な超多忙さ7年のブランクを埋める苦闘が続く。政治から抜け出したら美の世界へ。いつもさう思ひながらさうなりきれない。5時から後は美だけを追いかける、せめてさういふ人生にまでは戻したい。
 今日は音楽批評の推敲、植村氏『丸山と平泉』のノート。後はマイネッケと会田氏の読み進めと源氏。どこまでできますか(笑)

随感

昨晩伊豆の自宅に戻つた。隔週でと思つてゐるが、多忙が続き、月に一度が精々のまま年の瀬になつた。今日はマイネッケの主著『近代における国家理性の成立』に入れるか。一方で丸山眞男の『日本の思想』も読み始められるといいのだが。これ自体は大したものではないが、重要なことは丸山の日本思想論の影響力の大きさが、小林秀雄の『考へるヒント』の成立の密かな動機の一つだつたと想像される事だ。『日本の思想』に小林論も含まれるがさういふことを言つてゐるのではない。丸山の重要な仕事は戦前の『日本政治思想史研究』で、残念ながら戦後の丸山は戦前への怨念で学問を政治化してしまひ、あちこちに反証可能でない日本否定や日本侮蔑が噴き出て、客観的な価値を著しく落としてゐる。が、影響力は絶大だつた。
小林は近代絵画とベルグソン論の後半頃から再び日本に戻り、『考へるヒント』『本居宣長』と江戸思想を最後の二十年の主要な仕事にした。津田左右吉や村岡典嗣の近代文献学的方法を自分は取らないとする一方、丸山に言及はないが、寧ろ小林には丸山の日本思想との取り組みへの強い批判があつたであらう。契沖から宣長への学問の血脈を小林が辿る時、丸山の日本政治思想史研究の「方法」を引つ繰り返してゐるのは明らかだ。小林の宣長は「方法」そのものにおいて「日本」を提出してゐる。しかし、それ以上に津田や村岡の世代にない日本否定の情念に対して小林が内心どう思ひながら、自分の仕事を完成させていつたか。――
丸山の江戸研究と小林の江戸との取り組み。これは私としては多分来年の夏位から取り組むテーマとなる。
 音楽批評は昨日、ティーレマン論の見直しが終り、今日はサイモン・ラトルについて論じた部分の推敲。まだ頭も心も集中してゐない。昨晩はフルトヴェングラーBPO、シューマンのマンフレッド序曲とベートーヴェンの《英雄》を新しいヴァージョンで。その後、朝比奈隆のマーラー《復活》一楽章を聞いたが、これはよくない。多分今日からクレンペラーを纏めて聴く。ヴァルターやモントゥーも混ぜる。音楽批評集の完成に集中し始めねばならない。

随感

私を苦しめるのはたつた一つの事、物書きとして第一級の仕事を成し遂げたいといふ野心の圧力だけだ。同時にこれが私の生きる意味なのであつて、この野心の苦しみを放り出して、安逸に逃げるといふ事はそもそも意味をなさない。
 さう言ひながら、ささやかではあつても息抜きと喜びを作りながら生きてゐるのは、身近な仲間たちは知る通り(笑)
 植村和秀氏『丸山眞男と平泉澄』に続き、西村貞二『ヴェーバー、トレルチ、マイネッケ』読了。これは文句なしの名著。対象の質も高く西村の老練自由な筆も大変立派だ。それが竹内洋氏『丸山眞男とその時代』に入つた途端、申し訳ないががつくりきた。
丸山も戦前東大の連中も竹内氏の筆も低調。例へば非国体的な学者文筆家を筆誅する悪名高い蓑田胸喜――蓑田狂気と陰口され恐れられた――が自由思想を圧迫するといふやうな話は、圧迫されて黙つた側の恥でしかない。そもそも蓑田の脅迫相手には美濃部達吉や河合栄次郎、三木清のみならず、大川周明や安岡正篤も入つてゐる。国粋的当り屋だ。バックに政治家や軍人がついてゐても所詮民間人の筆誅に過ぎない。実際、文藝春秋系ゴシップ誌が蓑田をからかつてゐるのを竹内氏は紹介してゐる。文春がからかへる人をなぜ帝大の教授が恐れるか。相手はスターリンや毛沢東ぢやないんだ。腹を括れば何が怖いものか。命が惜しければ言論学問などするな。以下略。どこかの雑誌に出してもらはう。

随感

第一級の批評的知性は日本の本質だ。国民が広い層にわたつて歌を詠む伝統が、言葉との対話、言葉の不正確さの自覚、言葉を出す事の惧れと喜びを日本人の心に育んだからだと言へば単純に過ぎるかもしれない。日本人の繊細な心が詠歌伝統を生んだと逆から言ふこともできるからだ。
が、言葉への習熟そのものが日本人を日本人たらしめてきたのは間違ひない。
ところが、今や、日本人が深く蔵してきた言葉へのこの皮膚感覚を、物書きをはじめとする言葉を扱ふ人達こそどんどん踏み躙り、そこここで無思慮な断定が飛び交ふのが当たり前の風景になつてしまつた。
 言葉は人に、外に向けられるものではない。言葉は国語といふ大河の中に飛び込んだ私たちの己との対話の術であつて、私たちが言葉の命を感じるのは、脳ではなく肌によつてだ。
 この機微をよく知り、よく操る事の喜びと高貴さを棄てて、日本人はどこに向かつてゆくのだらう。
 理屈はいい。
必要なのは、古典的な良書の読書と詠歌、作文。
 静かな時間。

感想

今日は勉強。久しぶりに源氏。蓬生を読み進め。植村氏『丸山眞男と平泉澄』がほぼ読了なので、西村貞二『ウェーバー、トレルチ、マイネッケ』に入る。明日朝、植村氏の著書についての覚書口述を予定。私の焦点は丸山批判となる。植村氏の野心的な試みは30代での仕事だということを考えると極めて高く評価するに値する。問題設定そのものに無理がある所に、大胆な補助線を引いて、思想史の劇を描こうとした。無理が先立つだけに、議論の立て方にはいくつかの強い異議申し立てや留保があるが、何といっても卓抜なのは、この思想も方法も対極的な二人の思想家風の学者が、一方が昭和戦前、一方が昭和戦後の思想的病理の体現者だったというその直覚にあろう。氏は両者に精一杯の敬意を注ぎながら論述を進めるが、そこに浮かび上がるのは平泉、丸山それぞれの、寧ろ根深い蹉跌である。
日本近代は国体論とデモクラシー論との相克から始まる。言うまでもなく攘夷派と開国派、日本的価値観への固執と近代化論の相克だ。が、幕末から大正までこの二人に極端に感じる歪みはない。マルクス主義の登場と共に、それへの左右それぞれの思想的抵抗の中で極端な歪みを生じると言う仮説が一応立つ。戦後には更に敗戦とGHQから「配給された自由」と憲法、左翼思想解禁という更なる混乱があり、丸山は二重ないし三重の混乱の体現者になったわけだ。
私自身の切実な課題としては丸山をあらすじとして批判するのではなく――それは多くの人が手軽にし続けてきたこと――この人が、戦後日本の言論空間の、いまだに最も主要な病原である以上、そこを具体的に剔抉することが必要であろう。というのは、歴史認識、テレビや朝日との戦い、色々やってきて、アカデミズムや朝日には思想的な盲信があり、それが大体丸山の仮説や言説への盲信の「空気」に基づくことを感じることが多々あるからだ。
と言っても丸山批判という形をとるか、近代日本思想史を多面的に見てゆく中で徐々にそれを明らかにするか。まづは関連書目の濫読の3ヶ月が必要だ。読書時間の確保が今や人生最大の鍵となる。

私が朝日新聞に言いたいことはごく単純なことに過ぎない

 私が朝日新聞に言いたいことはごく単純なことに過ぎない。
1 嘘を付くのはやめましょう。
2 政治ゴロのような振舞をやめ、文化保守主義という御社の誇りたるべき原点に戻りましょう。
3 戦後的価値観への盲信をやめ、価値観の検討と再生を目指しましょう。
 特に1。この日本人の基本に戻らない限り、昨年比で32万5千部減=2分に1人購読解約が続いている部数急落からの再生はあり得ません。社員を路頭に迷わせないためにも、嘘つきから正直者へと更生しましょう。

この度第18回正論新風賞を受賞いたしました

関係する皆様、ご支援、ご愛読くださってきた皆様のお陰です。心から感謝申し上げます。「小川氏は国語の空虚化や文学の衰退など日本人の核となる精神の喪失が最も深刻な危機と訴える姿勢が評価された」との紹介記事は身に余る光栄です。微力ながらふさわしい仕事を重ねたいと思います。受賞の言葉を明日産経新聞に発表します。

日録

この所どうしても朝日新聞問題に取られる時間が多い。原稿執筆の時間が十日程も回答に潰されてしまつてゐる。外出も減らせない。日米のシンポジウムの準備もある。今日はやつと家で過ごせる。新聞を読み、家の片づけ、布団干しなど。書類整理は疲労困憊してできない。明日に回す。これから源氏、丸山と平泉。丸山と平泉は読了を目指す。植村氏は同世代の研究者。力作だし昨今の人の書いたものとしてはまことに凡庸ならざる且つ品格ある書き手だが、苛立ちを感じるのは圧倒的に丸山の地の文。ボタンを掛け違へたまま進む学問。丸山を今から読み直して批判するのはしんどい。なぜなら全く以て私自身には不要だから。が時代にとつては必要なのだ……。まあどういふ形になるか。近代と近代以前を往復しながら思想史ノートを近く連載しはじめられたら上等だ。
そのまま今週中に西村の『ヴェーバー、トレルチ、マイネッケ』。米原謙氏『国体論はなぜ生まれたか』松本三之助氏『明治思想史』。ヨーロッパ日本共に思想家の実作の読みに早く集中してノートを取り出したい。今日は折角買つたままになつてゐるムターとトリフォノフの競演するシューベルト、フルトヴェングラーのルツェルンのエロイカ、シューマン。何だかマーラーが聴きたい。そんなことを思ふなど数年前はあり得ないことだつたが。しかしバーンスタイン、ショルティなど刺激的なものでなく。東京には誰のがあつたらう。

感想

人口激減と安全保障環境の激変――この二つが、日本の最大の課題である。これを軸に進まない国会など国会ではない。本当の国難を直視した国会運営をぜひ与党諸氏に再建してもらいたい。
 私自身は、日本が日本である為の文化保守に集中したい。勿論、途中経過として朝日新聞問題を回避するわけにはゆかない。が、汚物の始末は別にして、文化保守の中心は文学の回復でここを今こそ耕し直さないとこの国は荒れ放題の荒廃した国になる。幾ら軍事大国になっても中国が真に豊かな国になるかどうか、これは彼らが自分たちの精神文化伝統に真剣に取り組み直すまで無理な相談なのだ。それを思えばこそ我が国の保守の文学への熱意の低さは寒心に堪えないと私はいつも書いている。非力、時間不足、なかなかそれを説得する仕事を重ねられぬ自分がもどかしい。
 私個人の今の状況を言ふと、心身が摩耗して知的な仕事に集中するのが難しい。朝日の事は実は全く関係ない。生活全部が外との交渉になり、日程が多忙の中で、勉強を両立させようとすると、意識が分裂して、神経が疲弊する。今日午前は引き続き丸山眞男と平泉澄。

随感・続

朝日新聞と私の違い。
 まあ色々違うが(笑)、言論を本当に信じているかどうか、言葉の力を本当に信じているかどうかの違いだ。
 言論は空しいと言った福田恆存の後継の一人と自負しながら、私は「空しい。が、やはり力はある」と信じているからこそ、仕事をしている。今度の回答も、私は、私の発する言葉の力を信じて書き上げた。
 朝日は言葉の力を信じていない。言葉を暴力として用いている。極度の歪曲を、歪曲と知りながら並べ続けるのは言葉への信頼ではなく、言葉を信じていない為に言葉に暴力を加えているということだ。
 拡声器を持っているからできる芸当だが、逆に言えば、たった一人の「言葉の力を信じている男」には、絶対に勝てない。
 嘘つきは最初から負けている。
 単純な話だ。
 謝罪だ賠償だなどとは百年後に言ってこい。

随感

間もなく朝日新聞の申入書への回答を発出する期日になる。大変なことになるであろう。
 日本を守る上での、政治、マスコミなど外的な敵からの防衛の仕事に当る日々は正念場だ。降りるわけにはゆかない。
 しかし、私の本来の仕事はむろん疎かにはしない。最大の苦痛は勉強時間がなかなか取れないことだが、今週は早朝から午前だけで7時間の読書時間を確保する方針でゆこう。しかし、東京の生活は心身を疲弊させる。伊豆に籠りたい。
植村和秀氏の著書を読み進め。丸山と平泉は興味深いのだが、私自身は寧ろ国学と平泉の異同、変質、福澤、蘇峰、吉野作造、陸羯南、長谷川如是閑ら日本の民主主義の系譜と丸山の異同、変質を見たい。

感想

私は他責的な言動が極端に嫌いな人間で、朝日新聞やテレビ批判が仕事の一部になってしまったのは、実は不本意である。
 私の酒席を共にした人ならわかってもらえようが、マスコミが話題になることなどまず全くない。興味ないのだ。また、人の陰口や噂話も殆どない。他責が本当に嫌いなのである。
 私が一番寛げる話題は音楽、文藝、思想であって、余程気のあう酒友とでなければ、他の話題は多かれ少なかれ無理をして話している。今でも文藝が主題で酒席が弾むという奇跡があれば、そのまま独創的な批評の本が一冊仕上がるという程度の才能と蓄積はあるのだが。
 音楽や文藝の仕事に徹すれば、居場所なく、社会的な仕事をすれば、本来の文藝から遠ざかる。……
今日は源氏、蓬生。末摘花の悲惨な境遇の描き方はえげつない。植村氏『丸山と平泉』は一章丸山、二章平泉を読み、構想を理解できた。思想史的に極めて興味深い試みだ。尤も、私は丸山の政治言動は浅薄で、全く評価できないし、平泉の少年日本史―講談社学術文庫の物語日本史のような仕事は、美しい素晴らしい歴史語りと思うが、平泉を一流の歴史家とは思わない。皇国史観による歴史の裁断と限定は歴史をつまらなくし、嘘にしてしまう。マルクス主義に対抗して歴史を神学化しようとした平泉の試みは、同時代の優れた文学者らから殆ど認めれなかったと思う。山崎闇斎の昭和における再生というが、闇斎のようなスケールのある思想的営みではなかろう。
 丸山と平泉は、近代日本の知が東大の中核で政治性によって傷つけられた典型、頂点として本書で取り上げられているので、植村氏は両者を巨人として尊敬しつつも、批判という方法でアプローチしている。私は寧ろ昭和の学問が小さくなったこと、近代人文学が定着して、日本の学問伝統の大きさが失われたことを二人に感じながら読み進めている。
植村氏が後半、どうこの二人を関連付け、また、その政治性から救い出すのか、出さないのか。今日はそこが楽しみで読書を進めたい。