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【猫を可愛がり叱られる】

近所のお洒落な喫茶店に散歩の途中立ち寄ると、店の猫がじゃれてきた。私は朝日新聞と新潮社からは嫌われているが、子供と犬と猫にはひどく持てる。自己申告するまでもなく女性には持てないが、そんな事は一向に気にしていない。案の定この店の猫も周囲の若い女の子達には見向きもせず私にじゃれついて離れない。私も得意気になって可愛がってやった。撫でると齧ってくる。そこが又可愛いのだ。ところが店を出るなり「いい気になって猫なんか可愛がっちゃだめだよ」と妻に叱られた。「なんでさ?」「あなたは人間でもいつもそうじゃない。誰でも分け隔てなく猫可愛がりしたり信頼して、どれだけ裏切られ、傷つけられてきたか分らないでしょ」「いや、それとこれとは…」「一緒一緒。〇〇から××までどれだけしてやられたか分らないよ。誰彼なく好意を示すのはあなたの行動パターンなのよ。きちんと人を見抜いてお付き合いしないとしっかりした方ほど迷惑をかけるよ」「参りまいて候。「猫を見たら裏切り者と思え」を人生訓と致します」ペコリ。
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【日本倫理思想史】

和辻の日本倫理思想史上をやっと読了した。とても物書きの読書ペースではなく、この多忙には閉口するが、大変な名著だ。会田弘継氏の訳されたカークの『保守主義の精神』に継ぎ、一層深く私の仕事を支える土台となるだらう。
和辻は、日本人の倫理観が尊皇を通じて成熟、確立した事、その後それがそれぞれの時代にどう織り込まれ、展開してきたかを精密に語っている。和辻の仕事の中でもとりわけ重要だと思うが、岩波文化人としての和辻の位置から、あちら側はこの業績を可能な限り隠蔽し続け、保守側も岩波文化人という事で重視してこなかった憾みが強い。和辻がこの「尊皇こそ日本の倫理の中核だ」との本を岩波から出したのは昭和26年12月、独立直前だ。要するに大日本帝国が集約した天皇伝統観は歴史的に見て概ね正しかった、それを新日本が崩してはならないという、大正文化人であるはずの和辻渾身の反時代的保守反動の研究書だったわけだ。それをその頃まさに赤化の中心だった岩波から出す、党派心のない、誠のある実に偉い人だったと思う。
逆に、現代は、実証研究の名のもとに天皇の相対化を進め、そういう中で一つ一つの形式論理、特に明治時代に定めた事で国の重しとなった「新たな天皇伝統」を崩してゆこうとしている。まさに和辻の危惧が70年後決定的な形で今皇室を襲っている。無自覚な者も多数いれば、便宜主義者の官僚や言論人(保守も含め)、新しがりだけの軽薄な学者、天皇制度を解体したい左翼、宮中やマスコミの新天皇軽視派などが錯綜してこの状況が進む事をどう阻止するかは、日本の存亡の限界を画する事になるだろう。

【逃げてはいけない】

 10月26日発売のHanadaで私は独占手記と松浦大悟氏との対談を発表した。ところがネットでの批判が皆無に近い。一月前、新潮45の発売当日からツィッターで大炎上し、私を人非人、私の書いた文章を便所の落書きと罵った多数の人達は、どこに行ったのか?
私は文章を書き、今度も再び一本のエセーと対談を以て諸君に答えている。私は「言葉」を重ねている。
 私を人間の屑呼ばわりした人達は、再び「反応」する責任があるだろう。
 それとも早くも「逃げる」のか?
 一体、言論を何だと思っているのか?
 今や言論とはツィッターとテレビのワイドショーで人をぶっ叩く暴力の事を言うのか? 叩けないとなったらさっさと「逃げる」のか? それが作家、編集者、言論人の遣り口なのか?
 「新潮」編集長の矢野優君、君にはとりわけ懇ろな反論をしてある。
 日本で最も歴史と権威のある雑誌の編集長として君は「逃げてはいけない」。
 矢野君が自分の発言の責任をどう取るか、多くの文壇論壇人に私の文章を周知しつつ、君の対応を見せてもらうよ。

【日録】

昨晩は沼津の愛人を密かに訪れ、一夜を過ごした,
ばれたら大変命がけの恋(笑) 話題はいつもながら専ら国体護持であり、生命哲学と科学と日本のあり方の深い一致である。とりわけ御代替わり、元号の意義などの深い洞察を聴いた。南淵書の伝説、権藤成卿による復刻、四元義隆からの継承、吉田茂……。私が今通読中の和辻哲郎『日本倫理思想史』と完全に重なる。いや、国家国政社会とずっと密接に仕事をしてきたその活学と、本質的な学問が、今やっと私の求めていた国家の學、国家の礎の再興へと一つになり始める神秘を様々な道縁、神縁の連なり、重なりの日々の中感じている。
 ただし、活学といっても、書斎の学問の時間をとれなければ、私は偽物に堕する。それがいつも一番の難題。
今日は源氏少女終り、玉鬘に入る。三島由紀夫『豊饒の海』の精読にも入らねばならない。憂国忌でのシンポジウムの準備である。音楽論集はトスカニーニ論まで順調に見直したが、カラヤン論の最後でしつこさをどう除去するかの懸念が生じた。明日改めて読み直す必要がある。今日は伊豆自宅なのでオスカー・ワイルドのサロメを読み直すつもり(カラヤン論の為)だったが、福田恆存翻訳全集に収録されていない! おやまあ。以前読んだ岩波文庫版福田訳が探しても見当たらない、買うしかないか。いずれにせよ、今年中に文藝と保守思想の大事な論考を3点程は仕上げたい。

【新聞広告】

 月刊Hanadaの新聞広告です。「『新潮』矢野優編集長へ公開詰問!」とあります。なぜ最も歴史ある、かつては長く日本文壇史の大黒柱だった雑誌の編集長を私が「公開詰問」せねばならないのか。私に関する私事でもなければコップの嵐でも炎上商法でもありません。これは表現の自由と文学に関する「歴史的事件」です。
 また、拙文を読んでいただければ分る通り、矢野氏は私に公開で回答する責務があります。また、矢野氏のみならず新潮社内で新潮45廃刊に動いた社員諸君、煽動したかされた作家諸君も、表に出て私と言葉で対峙する責務があります。
 文壇ごっこや党派ごっこでなく、言葉の力、個人の資格できちんと対決してください。 

画像に含まれている可能性があるもの:13人、、藤岡 信勝さん、小川 榮太郎さんなど、、スマイル、テキスト

【Hanada12月号】

 Hanada12月号に「小川榮太郎独占手記 私を断罪した者たちへ」を発表しました。

新潮45掲載エセーへの非難の嵐に対して、私はまず冒頭で次のように語り始めています。
「……ところが私への出演依頼はアベマTV、よるバズのみ、取材は週刊文春のみだ。それ以外は新聞、テレビ、週刊月刊誌とも接触さえしてこない。私の声を載せようとの申し出も本誌一誌のみだ。
 一体、日本の言論はどうなってしまったのか。
 ここまで本人不在のまま社会的断罪を個人に向けて、何が言論の自由か、多様性の尊重か、タブーに挑戦か。
私のあれしきの表現が、物書きや編集者を軒並み怖がらせたとは情けない。私が踏んでみせた地雷を皆が怖がるから、それで益々それが地雷になる。沈黙を守ったり、中身の検討抜きに私を罵倒する事で、タブーにしてはならぬものがタブーになるのだ。
こんな事で将来中国などの全体主義権力が日本の政治や司法に手を出してきた時、日本の言論界は自由の砦になれるのか。
寒心に堪えぬ脆弱さではないか。」

以下私への断罪者への言葉の礫が炸裂します。少なくとも何人かの方は言論で答える責務がある。
逃げる事はもう許されない。
読まずにワーワー言う世情に対抗してきちんと読んだ対話を増やしてゆきたい。ぜひ御一読ください。

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 ゲイの立場で活動しておられる松浦大悟さんとの対談も発表しました。いい議論が出来ました。今後に繋がる確実な一歩です。左翼活動や反安倍活動にLGBTが悪用されない為に、欧米と日本の歴史的・社会的・宗教的な大きな差異を理解した上で、適切な法的、社会的対処や理解形成へと焦らずに、みっちりと民間での議論を積み重ねてゆきたいと思います。私の文学の営みの根本にはまさに「性」があります。専門家とまでは言いませんが(笑)政治や法以前に性を文学的文脈でとらえるところから始めるのが筋です。 私を差別主義者と罵ってきた方々はぜひ具体的な議論、きちんとした言葉と論理をもって私に挑んでいだきたいと思います。コトバの応酬であるかぎりにおいて、たのしみにしています。


画像に含まれている可能性があるもの:2人、小川 榮太郎さんを含む、スーツ

【世界文化賞授賞式出席余滴】

 常陸宮総裁ご夫妻が登壇されると会場は全員規律でお迎えする。常陸宮様からのメダル授与は、受賞者が段下から拝礼して頂戴に上がる。世界を代表する大文化人たちが常陸宮様からの授与を恭しく受ける光景に、皇室を頂く国の尊厳を感じた。これは歴史と文化の重み――特に「時間」の重みだ。近代進歩信仰は、この時間=歴史の重みを極端に軽視する。誰もポッとこの世に出てきたわけではない。どれ程の過去の恩恵の積み重ねに助けられて自分の人生があると思っているのか。
 連綿たる皇室を頂くとはそうした生命観そのものの尊重でもある。
 まあ、そうした理屈はともかく、この光景は無条件に感動した。
 会場では太田英昭氏、清原武彦氏という二人の産経新聞元会長と歓談できた。特に恩顧ある二人だ。太田さんは満面の笑みで「小川さんは今や日本一の悪役だからなあ」とご機嫌だ。太田さんとお会いすれば見城さんの噂話になるが中身は秘密(笑)新保祐司さんとは「こういう会合じゃなくて講演でご一緒しましょうよ」と。楽しみな企画になるだろう、正論欄などでも問題意識を完全に共有しているのだから。一方、三浦瑠璃さんからは「小川さんは本当は優しいのにねえ。大変だけど頑張ってください」と労われた。瞬時に疲れが吹き飛んだ気がする(笑)
宴席は飯塚浩彦社長夫妻と同席、大阪にご自宅がある由、大阪ネタで奥様と盛り上がった。他、堺屋太一ご夫妻、日本を代表する建築家、北川原温氏、若手の第一人者の石上純也氏と同席。世界中で引っ張りだこの石上氏からは建築のみならずランドスケープ設計の話を伺い、啓発された。痴漢擁護者なる「尊称」で袋叩きにあっている間抜な人間からすると、世界で仕事をのびのび展開する石川氏の生き方は眩しい。東京の都市論、坂が多い事自体が東京の魅力の保持になっているとの石上氏の指摘に対して、私は東京の堀や水路が、首都高の下に淀むどぶのようになっている場合でさえ、都市の記憶を伝えている、他の町の同じような光景と違う魅力がある、というような会話。
 一方妻は、シルヴィ・ギエムさん、リッカルド・ムーティさんとのツーショット撮影に成功して上機嫌。カメラマンは勿論私(笑)

【高松宮記念世界文化賞授賞式】

 高松宮記念世界文化賞授賞式に昨晩参じた。世界文化賞は事実上フジ産経グループが勧進元の藝術賞で、ノーベル賞を補完する分野、格式(常陸宮殿下が総裁、ご出席、日本顧問は中曽根康弘氏)、受賞者レベルともに世界最高水準の賞である。今年30周年だった。今年の受賞は音楽:リッカルド・ムーティ氏、演劇:カトリーヌ・ドヌーヴさん、彫刻:中谷芙二子氏、絵画:ピエール・アレシンスキー氏、建築:クリスチャン・ド・ポルバンパルク氏。私の専門である音楽部門は初回ピエール・ブーレーズ以来、リゲティ、グバイドゥリーナなど作曲家、バーンスタイン、ロストロポーヴィチ、バレンボイムなど演奏家、オスカー・ピーターソンなど非クラシックジャンルとバランスよく当代の名匠を網羅してきた。
この賞は世界的に権威ある賞に育っているが肝心の日本での周知が今一つだ。フジ産経の一社の賞のような扱いが日本のマスコミで続いている。他紙は殆ど報道もしない。正論大賞とか朝日賞とか毎日出版文化賞ならまだ分るが、世界文化賞は世界を代表する賞だ。こういう狭量さは何とかならないものか。
文化は国力である。皇室が総裁でノーベル賞にない分野を五部門も網羅する藝術賞は世界的にもないだろう。
単なるおめでたい賞でなく、授賞と批評がもっと鋭く対決しあい、侃々諤々の議論が日本で起き、それが世界に伝播してゆく――それが批評と創造の関係で、日本でも昭和までは各分野でそうした批評が機能していた。そうした批評と社会的懸賞の機能を向上させること――私の真の社会的野心はそこにある。
 今や政治的な、またツィッター的なガサツで断片的な言葉や評価ばかりが飛び交う野卑な日本である。
 言葉を重ねて人を説得する事も、人の文章を読む事も「難しい」。その「難しさ」を避けたがさつな人たちの党派争いや幼稚さこそ、私が真に戦っている敵だと知ってほしい。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、室内

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【恵沢】

 神谷伊作氏といふ未知の読者から『詩集 心から心へ語りかける』を頂戴した。非売品の私家版との事だが、こんな美しい書物、こんな美しい言葉の宝箱に出逢ふのは久し振りだ。開くたびに喜びの波が胸中に広がる。自作の詩、源氏物語や古今集の和歌の自由注釈がそのまま詩になつてゐるもの、ディラン・トマスの訳詩やパスカルからの自由な思想詩など。とにかくどれもが美しい。甘い感傷はない。まして詩語の絢爛や独創でなく、ただ素直にやはらかく美しい……
最初の編「君はかなたから吹き來る風のやうだ」の冒頭をご紹介しておかう。
月を背に 空の向かふ 遥かかなたから吹き來る風は
 靑々と繁る木の葉を そつと撫でて渡つてゆく

風は 我がこころをもふるはせる
 心は 波打つこずゑの葉のやうに揺れ動き
  胸には幾多の音色が ひそかに鳴つてゐるのだ


自動代替テキストはありません。

【随感】

今年正月次のように書いた。「今年の干支戊戌は、いづれも繁茂を意味し、それが重なつて生命力を阻害する体毒となつてゐる様、有毒な過剰繁殖を大胆に刈り込んですつきりするか、この毒に負けるかの勝負の年と言へる。」
 まさにその通りの一年だが、解毒できるか負けるか――今、大きな勝負時に差し掛かっている。新潮45騒動は、日本の言語空間の、左右などの対立軸を越えた大きな病理を炙り出した。私の単身では敵は根深すぎ、繁茂し過ぎていて、扱いきれないが、病理を明らかにした事は大きい。敵は何らかの政治的立場ではない。表現に携わる人々の間に広く蔓延している「卑しさ」と「愚かさ」と「弱さ」である。私は非力でも言葉を積み重ねる作業を身を以て続ける。

【日録】

昨日、今度の音楽批評集を出してくれる漆原さんと打合せをして、来年3月刊行他、概要がほぼ決まつた。今時本格的な演奏家論集を出してくれるのは有難い事だ。今朝、初稿を通しての見直しや、原稿の取捨選択を終へた。明日、改めて冒頭から出版稿が確定して初めての通読、推敲、註の指定に入る。600枚を超える大きな作品集となる。伝記的記述、文明論的記述、演奏家論、レコード批評、音楽学的、楽理的な記述、演奏会批評が混じりながら、全体を通して指揮者の世紀を浮かび上がらせる試みとなる。
 指揮者論は世界でもあまりいい本がない。イギリスのウルドリッジの指揮者論はメンデルスゾーンから始まる音楽史的研究としては貴重だが、トスカニーニ以降の評価や記述にはかなり疑問が残るし、ショーバーグはかつてのニューヨークの大物評論家だが評価も文章も私は余り重んじる気にはなれない。その後色々な人の指揮者論があるが、ジャーナリスティックなものが殆どだ。故人となつた日本の二人の評論家、小石忠男さんの『世界の名指揮者』と吉田秀和さんの『世界の指揮者』が、今でも一番優れた仕事だらう。私のは人数をごく絞り、批評の方法も様々なものを一冊にまとめた仕事だから、これら先人のものとは比較し難いが、まあ、何とか纏まりは付いたといふ所か。
 それにしても国の憂いは私を意気阻喪させる。
 それではいけない、と思ふのだが。
 音楽批評の初稿を漆原さんに渡したら、ただちに小林秀雄と川端康成についての大きな仕事に取り掛かる。その中からまづは既に約束してゐる小林秀雄についての一書に掛らねばならない。

夕刊フジ短期集中連載「国難突破」3

夕刊フジ連載三日目。アベノミクス、安倍外交、集団的自衛権のトリプル効果が日本存続の死守ラインである事を論じています。政治は全く一筋縄ではゆかない特殊なアートなので、安倍政治にも色々な評価はあり得ます。しかし日本が今こうした形で存続しているのは安倍政治のお陰であって、これが誇張でないことは民主党政権時代、そして安倍氏以外の総裁候補の政策を見ていただければ分ると思います。安倍政治を称揚するというより、日本の文学と昭和までの日本を愛する私には辛すぎる現実です。
画像に含まれている可能性があるもの:3人、小川 榮太郎さんを含む

【自己戯画化】

今日は久し振りに激動の原稿生活の谷間。気分がいいので昼間から呑みたいなあと思うが、太るからやめておく。そういえば猪八戒に描かれた事を気にしているのではないかとのコメントを幾つか戴いたが、これは大変難しい。気にしてないと書くと「ほらほら強弁しちゃって、やっぱり内心気にしているんだ」と思われるし、「気にしている」と書けば嘘になる。こうして今日も私は、自分の属性の一部に猪八戒性があるかどうかというアイデンティティクライシスに悩まされるのであろう。私の属性を傷つけた差別漫画を出したとの理由で週刊文春に休刊を求める署名でもするかな、新潮社の矢野君や若手編集者諸君を誘って(笑)と書くと真に受けてツィートする人が出かねない。どこまで続く日本のアホ化。
私の表現の基本は自己戯画化。その延長で他者をもからかう。みんな真面目すぎ。それは自分がどんなに滑稽かを受け入れる自信がないから。

【日録】

月刊誌の対談と寄稿をやっと終えた。へとへとだ。日本の言論や文学を全うなものにする為に、理想的な道筋を描いて事が進んでいる。多くの良心的な方のお力であるとともに、神計らいでもあろう。感謝しながら地道に仕事を重ねたい。束の間の読書の後は某出版社の友人と会う。話題は何になるかな、痴漢擁護? 猪八戒?(笑) いやいや、河上徹太郎と小林秀雄の事、歴史について、アメリカ思想、日本の保守思想などについてじっくり話そうと思う。

夕刊フジ短期集中連載「国難突破」2

本日の夕刊フジ、短期集中連載の二日目は「人口激減問題を正面から扱え」と論じました。二大国難の内の一つです。ご購読くだされば幸いです。
画像に含まれている可能性があるもの:3人、小川 榮太郎さんを含む

夕刊フジ短期集中連載「国難突破」1

本日の夕刊フジに短期集中連載「国難突破」第一回を発表しました。今回の連載は、国難を正面から見据えた論考となります。ちなみに「国難突破」は前回総選挙で安倍総理が掲げた選挙のテーマでした。一国の総理が、選挙で「国難」を掲題するのは尋常ではありません。総理の挙げた国難は、北朝鮮危機と少子高齢化ですが、よりストレートに言えば中国の日本侵略危機と人口激減社会の危機です。問題点の整理にご一読くだされば幸いです。
画像に含まれている可能性があるもの:4人、小川 榮太郎さんを含む

【日録】

昨晩はポリポリ、をやってしまった。歌舞伎揚げではなく戴いたばかりの「ばりうま煎」である。いい気分で酔っぱらった私は寝ぼけ眼で『東京物語』を見ていたのだが、家内によると、時折ポリポリっと音がするのだそうだ。ところが見に来るとうとうと寝ている。眼を放すとまたポリポリッと音がする、見に来ると寝ている……。ここまで来ると私は最早生態において猪八戒になっているとは言えないか。喰う、寝る、喰う、寝る……。朝起きて急ぎ確認したところ、鼻はまだ人間のものだったので胸をなでおろした。しかし腹部のこの膨らみは、ああ……。今晩からは素行に気をつけようと思う。
今日は雑誌原稿に集中しなければならない。昨日は近日刊行予定の音楽評論集のバレンボイム論とティーレマン論を通読、推敲。前者でトリスタン全曲と取り組み直すか、後者でブラームス第一交響曲と取り組み直すかといふ懸案があつたが、もうそれはせずに完成に邁進する事にした。今日か明日初稿全部を出版社に送りたい。すぐに保守思想論の仕事が待っている。それから愈々文藝の本格的な仕事も……。

【日録】

今朝は新聞への寄稿を完成し、バレンボイム論の仕上げに専念した。本格的なトリスタン論を入れるのは寧ろ作品のバランスを壊す。一度全力で取り組みたい主題だが、今は控へる。それはともかく週刊文春の私の猪八戒を妻が気に入ってしまったようで朝から書斎にきてしきりに感心している。「あなたの髪が細かく描けてるね。これはよく特徴つかんでるわ。髪から眉と輪郭であなただってわかるよ。眼は似てないし豚鼻は御愛嬌だからいいとして……。杉田さんも髪で特徴をつかんだのかな。麻生さんは眼と口だな。ほら、こう隠しても麻生さんだってわかるもの」うーん、話の向きが決定的にずれている気が……(笑)

【小川榮太郎を隠すという構図】

 私が騒動の中心であるにも関わらずマスコミや言論機関の殆どが私に接触さえしてこない――これは『徹底検証森友加計事件 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』朝日新聞5000万円訴訟、今回の新潮45廃刊とも全く同じ構図だ。
 一著者が朝日という大マスコミから5000万円の訴訟を仕掛けられるというのは大事件だと思う。もし私がそんな訴訟をされるほど杜撰な本を書いたのなら、物書きとして抹殺されてしかるべきだし、そうでないのに朝日が個人を訴えたなら極めて危険なスラップ訴訟だ。ところがこの件は産経新聞、夕刊フジ以外の全メディアが、週刊誌を含め、黙殺した。リベラル派のただ一人からも疑問の声は上がらなかった。
 さて、今度の新潮45騒動も、私の論文が罵倒の対象となり「人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現」(新潮編集後記、矢野優君執筆)とまで断罪されている。
 ところが私への出演依頼はアベマTV、よるバズのみ、取材は週刊文春のみ。それ以外は接触さえしてこない。私の声を載せようとの申し出も一誌のみ。(私にはそれで充分だけど(笑))
 ここまで本人不在のまま社会的断罪を個人に向けて、何が人権を守れか、差別をなくそうか、言論の自由か、多様性の尊重か、タブーに挑戦か。
遠巻きに罵詈雑言を浴びせるだけ。原始的村落の村八分、いじめとどう違うのか。
私は自分の文学、思想の仕事が忙しいからそれでいいけど、日本の言論界やマスコミは本当にそんなんでいいんですか?

【おーい、文壇人諸君!】

 高橋源一郎氏の小川榮太郎論が一部で話題になつてゐるさうだ。高橋氏の文章については近く私も一文を発表するが、いづれにせよ、これは論でも批判でもない。
私は有意義な批判は厳しくともお受けするし、対話が可能ならそこから対話を始めるが、高橋さんの一文はそもそもプロの文章とは言へまい。筆力のない書き手が精一杯の嫌味を並べてみたといふだけだ。編集長矢野優君が挑発したのは間違ひない。編集者として人が悪すぎはしないか。
 はつきり言つておく。私の新潮45に寄せた一文は、短いが、歴史を画する仕事だと自負する。
 批判で構はないから論争なら中身のある文章を寄せてほしい。
小林秀雄―正宗白鳥のトルストイ論争、福田恆存の平和論論争、国語論争、吉本―花田論争、江藤淳と本多秋五の無条件降伏論争、林健太郎と小堀桂一郎の侵略戦争論争……以上ごく一部に過ぎないが、かうした先人の論争の前に今の文壇の諸君は少しは恥ぢたらどうだ?
私の一文はかうした論争に匹敵する何かを生むだけの実質がある。
ツィッターで暴言を吐いたり、筆力のない高橋氏の揶揄一本で逃げずに、文壇全部で小川榮太郎にかかつてきたらどうだ。

【猪八戒の独白】

何でも友人によると、昨日発売の週刊文春に、私を揶揄する漫画が掲載されているそうだ。西遊記の登場人物に擬えて総理を「晋三法師」、麻生大臣が悟空、杉田議員が沙悟浄、私が猪八戒という役割になっており、猪八戒のセリフが「痴漢の権利!」というのだそうである(笑)
猪八戒という事は西田敏行の役回りか。こりゃダイエットが必要だな。いや、次に釣りバカ日誌のハマちゃん役が回ってきた時の事を考え、思いっきり太る方がいいか。
それにしても安倍総理、麻生副総理、杉田さん、私で西遊記とは。まあ一同でバケモノ退治をしている点は事実に基づいている(笑)

【歌舞伎揚げ】を買ってしまい後悔している。原稿を書く、疲れる、ポリポリ。本を読む、眠くなる、ポリポリ。電話が入る、電話を切る、ポリポリ。このまま猪八戒的体形にならぬよう隠してしまいたいのだが、自分で棚の上に隠してもどうせ棚の上から取り出して、又ポリポリしてしまうのは目に見えている。
悩ましいので早速呑み始めた。仕事は滞る、酒は減る、歌舞伎揚げは止まらない…。こうして猪八戒化へと転がり落ちるのも、すべて週刊文春の陰謀のせいだと思うと癪に触ってならない、ポリポリ。

【私の根本的な歴史認識】

新潮45の拙論は、近代思想とその限界、頽廃、その終末に関する私の多年の本質的な疑念、問ひかけの籠つた一文である。その思想史的背景を書いておく。
 ヨーロッパ精神史そのものが自己解体をし続けて今に至つてゐると私は考へてゐる。ルネッサンス絵画の主題、造型、デッサン、諧和などによる見事なフォームが、マニエリスム、バロック、ロココ、ロマン派から印象派まで、歪み、崩れる事による様々な新たな美を示しながら、遂にピカソの後、フォームにも美にも戻る回路を失つて現在に至つてゐる事が、そのまま彼らの思想、社会の「進歩幻想」の全体像を示してゐる。
 それは進歩ではなく解体の過程だつた。
 近代の社会思想も私には人間性や秩序の解体のプロセスであつて、進歩だとは思へない。道徳を失ひ権利を得たら、だから何だといふのか。かういふと反動主義者と思はれるが、人間は代償を伴ひながら何かを手に入れるのであつて、私は近代を否定してゐるのではない。ただ代償を元に手に入れたものが進歩であり普遍的価値だと言はれても、鼻をつまんで、嘘を付けと呟くしかないだけである。
 崩れた文明には衰弱と死、その先に新たな別文明の台頭や吸収しかないのがかつての人類史全ての示す所だ。西洋に明日への余力があるか、可能性があるかには些かの疑問なしとしない。
 問題は日本だ。
 私たちは自分の思想、自分の生き方を、近現代ヨーロッパの輸入による自己変容を巧みに清算しながら、新たな過程へと再創造させ得る民族的潜在力がある。縄文以来の長期に渡るゆつたりとした自己開発による地下の蓄財が膨大だし、それを近代ヨーロッパのやうに短期に爆発させる事もなく、常にそこそこの余力を持つて歴史を生きてきた。開発しきり、自己破産する程までに自分の力を使ひきつてはゐない。ずぼらな民族だと言つてもいい。
戻れば民族的富はまだまだ豊富なので、欧米思想の放電と崩壊に付き合ふ必要はない。
私が日本の再建維持の為に思想の営みに戻ると事ある毎にいふのは、この辺りを含意しての事だ。

【文芸誌新潮】

文芸誌「新潮」に心底驚愕した。日本で最も歴史ある文藝誌新潮の今月号、矢野編集長の後書で私を基本的な誤読に基き誹謗する一文を載せた上勝手に拙文について掲載誌編集長でもないのに読者に御詫びをし、高橋源一郎氏「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」という、それこそ泣くに泣けないほど粗末な一文を掲載している。私を貶めたい気持は文章の節々から痛いほどよく伝わってくる。御同慶の至りだ。だがこれではリテラ並みではないか(笑)高橋氏は私の全著作を4日で読了したという。そう書く事自体が私への精一杯の侮蔑なわけだが、幾らなんでも、これは論評の作法を踏みにじりすぎだろう。実際高橋氏は殆ど私の文章を読めていない。明らかに指摘できる事だらけだ。なぜ矢野氏はこんな無責任な文章を平気で文藝誌に載せたのか。
 これ程正面から喧嘩を売られたのは久しぶりだ。
 高橋氏は悪いが捨て置く。屁っ放り腰で逃げながら人をくさす文章に後ろから切り付けても仕方がない。
 矢野氏よ、覚悟せよ。

【日録】

昨晩は『正論』45周年のパーティーに出席した。最近45に縁がある私だが(笑)、昨日はお世話になって来た歴代の編集者、産経新聞の皆さん、学者評論家の皆さんと久しぶりの談笑。大概顔を見るなり笑われるが、多くの激励を頂き有難い。先日は文春の親友から笑われた。「君、火中の栗を拾いに行くなと見てたら、自分で火中の栗になっちゃったな」
 今月から来月にかけて新潮45についてはきちんと思想的、論理的、また経緯に関する名誉棄損事項も含め、方針を定め、社会に再度提言する。
 今日はチェリビダッケ論の蹴りを付け、新潮45自作自解へ。アメリカ思想論や和辻についての断章なども作りたいが少し後回しになるか。今日は和辻の日本倫理思想史を更に読み進める。源氏の少女も遅々たる歩みだがやっと再軌道に乗った。しかし天気のよい秋晴れの伊豆だ。海でも見に少し長時間歩いてみたい気もしている。

【告知】(J-CPACについて)

J-CPAC2018の概要がプレスリリースされました。11月17日、18日開催です。昨年はスティーブ・バノン氏を招聘して話題を呼びましたが、今年は、私自身登壇者としてのみならずJ-CPAC2018エグゼクティブプロデューサーとして、あえば直道JCU議長と緊密に連携しつつ、日本側のゲスト選定・交渉やプログラム作りに参加させていただいています。登壇者には、現時点で、甘利明氏、稲田朋美氏、青山繁晴氏、西岡力氏、村田晃嗣氏、藤井厳喜氏、織田邦男氏を始め錚々たる皆様をお招きし、アメリカ側も保守言論、マスコミ界、そして共和党から現代アメリカのキーパーソンが多数参加しての開催となります。
 先進国全体が政治、思想共に漂流を続け、それが中国の台頭と妙に符合してしまっている現在、日米保守は思想、アカデミズム、政治ともに緊密な連携を必要としています。
 その連携は各分野の専門家、実績ある実務経験者間での議論によってはじめて深まるものでしょう。
 あえば議長およびスタッフ、同志の皆様と、その観点から企画してまいりました。
 会場の関係でチケットに限りがあります。ぜひ早めにご購入、ご参加ください!

【日録】

昨日は紀尾井町会議。多くの同志、仲間に御参加頂いた。質疑や懇親会でも重要なご指摘を幾つもいただき、思索の新たなきっかけとなった。
新潮45に休刊を巡る日本の言論状況の衰滅的現状、私が主張している重要なポイントである➀イデオロギーの同調圧力の異常さ―身を以て私が示したわけだ―。②性と結婚を特定のイデオロギー圧力で安直にいじるな、これは私の説ではなく、今日までの人類史全部が現代に投げかける満腔の怒りだという事。イデオロギー圧力に媚びる前に、人類史の圧力を感じろよ、それを感じられないという事が狂気なんだと何故分らない?
そしてもう一つの議論は、安倍政権三選後、実際には、安倍総理のぎりぎりの対処にも関わらず、日本は内外とも厳しい崩壊状況に瀕している事。
 それにしても。私は公定の文脈で政治的立場を主張する政論家ではない。文学者だ。言葉を一つ一つ選び抜いて仕事をしている。言語表現の文学的次元を全く理解できない言論界になった事に嘆息する。まあ嘆息は三十年前からだが。
 今日は日本政策研究センターのシンポジウムだ。安倍三選後の日本の課題との事だが、私自身の筆禍事件を含め「厳しい本当の事」を話す事になる。聴衆よ、我が獅子吼を覚悟せよ(笑)

【日録】

今、私が戦つてゐるのは、私個人の戦ひではない。私は私自身には興味がない。したがつて私自身を守る事にも本質的に興味はない。私の仕事と天命にのみ興味がある。天が私をどう扱ふかに身を委ねてきた。すると時恰も今、心強い友が次々に現れ、一方で、安倍三選後の最大の課題と私がかねて指摘してきた内外の最重要課題に直接かかはる事になりつつある。
ただし、私の戦ひの本丸は人類の思想の再建にある。近代の第三段階目――第一段階がフランス革命、第二段階がマルクスレーニン革命、第三段階が今のリベラルファシズム――この三段階目をどう最終的に権利の拡大の一定の成果まで認めた上で、道徳といふ基盤への再帰を人類に果たさせるかといふ主題だと考へてゐる。
 今日は紀尾井町会議、明日は京都で日本政策研究センターのシンポジウムで話す。今日は主にかうした思想戦の最前線の意味、明日は、安倍政権三選後の課題といふ中で、日本の総合的末期症状からの脱却について、できるだけ本質的な議論を立てるつもりでゐる。

【友人への手紙より】

アメリカ思想と絡めての保守思想の建設といふ話をしたけれど、本当は博士との座談で出た美だけでいいんだよなあ。実際には思想も何も俺にはいらないんだよ。美から神聖に抜ける光の道があるし、私にはそれこそが親しい世界であつて、曲学阿世の徒しか殆ど存在しない濁世で何か言つたりしたりといふことが根底的な生き方の上での自己欺瞞でもある。
美から空観に抜けて言語に戻るといふのは、僕はできるんだ、かう言つては偉さうだが。
万葉と古今と新古今で歌物語三部作を書いてみたいね。近代ではやはり話した通り小林と川端に僕はとどめを刺すが、川端の魔界と小林の常識の間を往還するのは近代日本を歌ひあげる上では最高の贅沢だものな。

【私たちの國は歴史の外に出てしまつてゐる】

今、日本の言論は歴史的危機にあります。
新潮45休刊に際しての新潮社社長や社の「言葉」、事の経緯の異常さに声を上げる言論人が殆どゐないどころが、それを促し、助長する側に多くの物書きや編集者らが立つたことが、政治と別の次元での「言論」が自らの選択で、自殺してしまつた事を示してゐます。
戦前軍部最盛期でも出版社がこんな形で腰砕けになるなど全く想像もできない醜態です。岩波、朝日から新潮、文春、中公だらうと、「あの頃の日本」には気骨ある人間が幾らでもゐました。党派や政治的主張以前に「骨」のできがまるで別民族でした。
もう私たちの國は、日本の歴史の外に来てしまつてゐるのです。
小林や三島や安部公房の後に、万葉や源氏を読んでもそれは同じカテゴリーのものです。
文学です。
イーリアスや旧約やゲーテを読んでも同じカテゴリーです。
文学であり人間の言葉による表現です。
この文学=人間の言葉による表現の伝統が、この三十年、どれ程無視、破壊され続けてきた事でせう。
文学や言葉は自然環境以上に繊細でかつ言ふまでもなく歴史的なものです。
それを扱ふには何よりも歴史、先人へのエチケットが必要です。
今の人の人権を配慮する数万倍も歴史、先人の表現への配慮が必要なのです。
言語表現はイデオロギーの奴隷であつてはならない。
イデオロギーに抵抗する拠点であり、その時代の政治思潮、社会的風圧などといふ所詮、後世から見ればインチキでしかない一時的な迷妄に抵抗する拠点こそが、文学伝統、思想伝統です。
その事を歴史的な文学や思想の味読を通じて、体で知つてゐる出版人や物書きが、保守を含め、どれほど今の日本に残つてゐるのか。
言論の自由は――私が新潮45論文で論じた結婚と同様――近代的制度以前に由来する、人間の叡智です。自分たちの世代の理由で結婚観念を拡張する事が極めて危険なやうに、自由も又、歴史的な慎重さで取り扱はれねばなりません。言論の自由は、古来、日本社会では広範に存在し、政治・軍政権力との葛藤はあつたものの、社会風潮で人をここまで黙らせるなど、かつてありませんでした。
もう一度嘆息と共に申し上げねばなりません。
私たちの國は、あるいはその言語表現者の世界は、歴史の外に拉つし去られつつある。私たちが歴史の中に再び腰を低くして戻らない限り、日本が日本であり続ける事はできない。光輝ある文明が急速に崩壊してゆく多くの先行文明の道を、私たちの國も、今、辿らねばならないのでせうか。

【日録】

日本書紀には、善心悪心という表記が出てくるが、和語では、それがしばしばきよき心、きたなき心と表記されているのはよく知られている。日本人は善悪の基準をきよさときたなさにおいてきた。
 荒波にもまれながら仕事をしてきた中で、私にささやかな誇りがあるとすれば、きよき心の持ち主の縁が重なる事だと言っていい。
 心は油断するとすぐ汚れる。
 毎日磨き続けなければならない。祓ひであり祈りであり禊である。
 今日はチェリビダッケ論、昼から友人と。夜は出版社の編集者との酒席。日本の文藝、日本の思想に愈々戻る。静かで集中した精神の時間を軸にした日々にしたい。