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【勝手に興奮(笑)】

今、梶本から、来年ゲヴァントハウス管弦楽団が新シェフのネルソンスと来日とのメール。チャイコフスキーの第五とともに、何とブルックナー第五。ネルソンスは、バレンボイム、ティーレマン後、最大の天才。桁違いに柄の大きな余裕のある音楽をやる。この11月に40歳になったばかりだが、ゲヴァントハウスとボストンの音楽監督。20世紀初頭のニキシュ以来の事だ(笑)。早熟の天才としてはフルトヴェングラー並か。
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【我が人生の師】

チェリビダッケ壮年期のリハーサル。天才そのもの。踊り、歌い、叫び、演じ、演説し…。19分から何分かだけでも見てごらんなさい。体の動き全部が音楽で、惚れ惚れするばかり。フルトヴェングラー、クライバーと双璧。私の大学時代そのものを規定する程、私はこの人から影響を受けた。私はフルトヴェングラーに批評を学び、この人に生き方を学んだ。小林や川端、福田恆存に学んだとは言えない。彼らは、既に私が知っていた批評の方法や生き方を洗練させ、強くし、自分に確信を与える砥石だった。


【12月の予定(笑)】

音楽批評を脱稿してほっとしてたら、一月刊行予定の本のワード原稿が出版社から届いた。さりげなく15万字を10万字にしてくれと書いてある。くらくらしてきた(笑)その上カレンダーをぼーっと見ていたら、明日は第一土曜日、紀尾井町会議ではないか。いや参ったね。時間が経つのが早い。明日は誰のどんな悪口を言うことにしようかな。
今月は、
〇音楽批評の注釈の完成。
〇月刊誌原稿1本。~12月7日
〇新刊のゲラ稿。~12月15日
〇来月に別の月刊誌に掲載してもらう予定のアメリカ保守思想覚書。~12月15日
〇林田さんの『真説陽明学入門』についての一文。明後日から伝習録の読み直し。島田先生の朱子学と陽明学、小島毅さんの仕事も。後者は批判的な読みにならざるを得ないが。~12月一杯
〇読み進めは、豊饒の海。参考書は一切読まずに、私の読みだけの初稿を今月作成したい。
今日はもう晩まで全てを忘れて『暁の寺』の読み進めだ。

【日録】

昨日は、昼過ぎに大事な友人によるお引き合わせ、その足で名古屋。直江弘文愛知県会議員の励ます会で講演。直江さんの県政への、また国家への情熱溢れる取り組みに感動しました。すぐに東京に戻り、JCPACを大成功に導いたJCUの饗庭議長と今後の保守運動についてのご相談。世界の保守が連帯しないと中国の脅威とリベラルメディア+アカデミズムのイデオロギー圧力から「自由」を守れなくなると思っています。JCPACでもアメリカの論客や政治家の中国への強烈な危機意識に接するにつけ、日本の論壇や保守全般の呑気さに焦燥を覚えます。「自由」の死、この悪夢は少しずつ社会に浸透し続けているのです。
 今日は音楽評論集の脱稿、出版を引き受けてくれた漆原さんに原稿を送ります。その後、再刊が決まった林田明大さんの名著『真説陽明学入門』に解説を書く事になったのでその勉強。三島の『暁の寺』の読み進めと、久々の源氏。夕方4時から大事なミーティングがあるので時間がない(笑)
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【ヤッホー】

今朝、ようやく音楽評論集の通しの推敲が終った。約600枚。明日最後の一篇をもう一度見直して出版社に送る。今月は多忙を極め、予定より半月遅れた。学術的にも耐えられるものにする為、12月は註を付す作業。12月は『豊饒の海』、和辻の『日本倫理思想史』との格闘もある。今日は名古屋で講演があるから昼には出なければならない。『暁の寺』を持参して新幹線で読む。言わずと知れた難物(笑)
先週土曜日はロシアプログラムで日本のピアニスト4人のコンサート。ロン=ティボー、クララ・ハスキルコンクールなどの優勝者ばかりだが、そういう事抜きに日本人のみで世界的にも第一級のピアニストの競演が聴けるのは凄い事になったものだ。10年前では無理でした。ラストのラフマニノフの二台のピアノの為の組曲2番、清水和音と藤田真央は圧巻。日曜日は憂国忌の講演の後、川崎でズービ ン・メータ指揮バイエルン放送響。シューベルトと《春の祭典》。20年来メータの指揮に感心した事は余りないが、今回は文句なしで素晴らしい。《春の祭典》の濃厚な、そして親密な歌、深々とした音楽の溢れ、そして強烈な打撃力。カラフルな色彩。病気のヤンソンスの代役だが、メータ自身も82歳、癌の闘病直後、椅子での指揮だ。ところが指揮には体が不自由になると進境著しくなるという不思議なジンクスがある。クレンペラーとカラヤンはその際たるものだろう。体がうんと悪くなった後一回りも二回りも凄くなった。小沢も一昨年痛々しいまでに衰弱した体力でウィーンフィルを指揮した《未完成》は黄泉の国の荒涼たる光に溢れた壮絶な演奏だった。
一昨日は歌舞伎座、千秋楽。隅田川続俤の法界坊。猿之助流儀のパフォーマンスと捧腹絶倒の喜劇。3時間があっという間。隼人と右近の美男美女ぶりも妖艶の極み。ようやく歌舞伎と能に通える生活に戻りつつある。いずれも演劇の二面性――世俗性と聖性――、総合藝術としての演劇の世界史的頂点の一つ。三島は生涯歌舞伎に通い続けてあの作品群を生み出した。白鳥、川端を始め近代日本文学に潜在する歌舞伎の影響は深い。

天皇陛下御即位30年奉祝委員会

 先程「天皇陛下御即位30年奉祝委員会」設立総会が500名ほどの参加者のもと行われました。私も、奉祝委員の委嘱を謹んでお受けいたしました。天皇陛下即位30年に伴う「感謝の集い」を来年4月10日、新天皇御即位を祝う「国民祭典(仮称)」を来秋、皇居前広場で行います。
 委員会の名誉会長は経団連の中西宏明会長、会長に日本商工会議所の三村明夫会頭が就任しました。

【お願い】

Hanadaの最新号の拙文「出版社の自殺、言論の自滅」をぜひ読んでいただきたいと思います。現在言論の自由について臆せず正面から論じたほぼ唯一の文章だと思うからです。残念ながらそこまで日本の言論界は自ら堕ちてしまった。お知り合いの編集者や左右を問わぬ物書きの皆さんにもご一読お薦めくだされば幸いです。言うまでもなく私の為ではなく、日本の自由の存続の為に。
私への数々の罵倒を並べた後の本書の一節をご紹介します。
「ところが、私はゴキブリと言われようとゾウリムシと言われようと、サイコパスと言われようと、人間のクズと言われようと、全く傷つかないのである。
人は「表現」などに一々傷ついてはいけない。
私は、会話や手紙・メールでの言葉の慮りは人一倍重んずる。
しかし、文章表現、思想表現に対しては、人は互いに我慢しなければならない。
勿論、私への先程の引用は全て単なる悪口雑言であり、卑しく汚い。だが、それでも、それは発信者自身が責任を負うべき「表現」である。もし私がクズでもゴキブリでもないなら、そんな言葉が私に痛手を負わせる事などできようはずもない。
ましてや数千から数万の読者しか持たない紙媒体に発表された「表現」は、人も社会も我慢しなければならない。
「表現」は必ず人を傷つける。
 例えば、手近な例として長谷川町子の『いじわるばあさん』を例に取ってみよう。……」
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【憂国忌】

昨日、憂国忌で『春の雪』を論じた。富岡幸一郎さん、松本徹さん。司会は上島喜郎さんでした。
 発言の一部から。
『豊饒の海』における唯識は知的アクセサリーではありません。その理解については色々批判があり、仏教解説書の引き写しも指摘されてゐます。が、これは、西洋の人間観への根本的なアンチテーゼとして出されてゐる。人間の描き方が日本とヨーロッパでは違ふといふやうなレベルを超えて、根本的な時間のとらへかたの違ひ、つまり世界理解が根本的に違ふのだといふ事の表現です。
日本の近代文学は、自然主義、漱石、鴎外以来、西洋の小説の骨組みで、近代以前の日本人の精神や世界観を語つてきました。
最大のヨーロッパ通だつた鴎外が晩年江戸武士の世界へ、荷風は江戸の戯作の世界へと回帰するのがその典型例です。
三島は、彼らを尊敬してゐた一方で、かうした先輩たちの在り方に懐疑的でもありました。キリスト教といふ土台の上で開花した近代小説の構図や技法にそのまま取り込まれながら、前近代の日本に無自覚に依拠したり回帰することを後退だと感じたのだと私は思ひます。これは小林秀雄との対談でも三島さんはいつてゐます。
その時三島は近代西洋に対抗する世界観として、世界観といふ自覚的な思想文学形態を持たない日本ではなく、唯識、そしてその唯識を支へる印度に思想的根拠を求めたわけです。
一方、この作品は、同時に、日本近代の肖像画、それも日本近代への弔辞としての肖像画でもあります。(後略)
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月刊Hanada1月号

月刊Hanada1月号が発売されました。「出版社の自殺、言論の自滅」と題して、新潮45の拙論を巡るその後の論壇文壇との論争を展開しています。11月発売の月刊誌では実に9つの雑誌、20本の論文、エセーで私、あるいは拙論を載せた新潮45が非難・揶揄されています。管見の限り、批判はありませんでした。非難・揶揄です。いつも言うことですが右も左も言論の質が低すぎます。敵認定して非難か仲間褒め。対話的批判ができない状況が続くと、全体主義を招くと私は再三警告してきました。
以下、書き出しのみ紹介しておきます。ネット的な雑な理解ではなく、全文をぜひご熟読いただきたいと思います。
「福田恆存の絶筆は、『新潮45』に寄せた「某月某日」という日記風の文章だった。平成四年十一月号である。いかにも福田さんらしい言葉の所作で読ませるが、時代への絶望と永訣の悲しみがそこここに感じられる。
 言葉の乱れや外来語の氾濫を嘆きながら、福田氏は、それを揶揄して「この狀勢ではあと一世紀もしたら、日本語はつひに「ボトム」を極めることであらう」と慨嘆する。
 それから四半世紀、今回の『新潮45』廃刊とその後の月刊誌の後追い寄稿を見ると、まさに「ボトム」の惨状に言葉を絶する他はない。」

日録】

今日は朝から『春の雪』の憂国忌発言、ほぼ終つた。この作品は三島の遺言なのだから、私の発言も遺言になつても悔いのないものにだけはしておかねばならない。
午後にはモーストリークラシックの発行人の桃原さんから大推薦の若手ピアニスト藤田真央君が出演するロシアピアニズムinオーチャードホールチケット。藤田君はクララハスキルコンクールの昨年の優勝者。先日ティーレマンのコンサートでご紹介いただいた。桃原さんはティーレマン氏に彼を紹介したようだ。近未来共演が実現するかもしれない。今日のロシアプログラムは、日本を代表するピアニスト清水和音の下、坂田知樹、松田華音、藤田真央の3人の若手での連弾と独奏。指揮者はカラヤンの後、人材が輩出するまで30年もカラヤンシステムの悪影響が続いたが、ピアニストはポストポリーニが既にバンバン出ている。ポリーニから20年位の退屈な秀才ピアニストの時代は明らかに終わりを告げ、自由な音楽が奔流のやうに若手の指から流れ出してゐる。今日も楽しみ。

【独り…】

世はゴーンだ大阪万博だと賑やかだが、私は安倍―トランプ後が目前に迫っている中で、精神的価値も国家安全保障も内外から瓦解し続けているのに、保守派こそが極限的な平和ボケである今の日本を見るにつけ、胸がゴーンゴーンと鳴り続け、万博ならぬ切迫感で毎日焦燥と無力感の日々だ。このままでは日本は内外から急速に終る。私は安倍政権をそこから救出する一歩目と捉え、政権樹立に人生を賭け、その後も応援している。日本の延命装置になってほしかったのではない。プログラムの再設定と大胆な踏み出しが何としても必要だ。
 この所体調が妙である。非常に重い。『憂国忌』を前に三島の霊が私の体に入り、何かを伝えようとしているのである。私は私心がないので器に使われ易い。『豊饒の海』は理論上唯識に依拠しているから、霊魂という実在を認めないが、三島は素朴にそういうことを信じていたし、実感として感じていただろうと思う。それにしても『春の雪』は素晴らしい…。

【書かねばならない本】

来年の1月、3月、5月に出す本が決まっている。3月のは大型音楽評論集。約束している本がそれ以外に2冊、時事的に出す可能性のある本が2冊ある。年内に保守思想を本格的に論じる仕事と大型の文藝評論集に取り組み始める。これらは日本のみならず世界の思想シーンに語り掛けるつもりである。
 問題は啓蒙。とにかく現代日本人が政治的左右や老若男女を問わず、長年常識としてきたものの考え方や基本的な知識がなさ過ぎて、話のスタート地点に立てない。三振やフォアボールというルールを知らないまま野球やっているようなもの。面倒臭いから一冊で考える上での基礎的な足場が分る本を書いておきたい。
 最近の笑い話は色々あるが(笑)一つ無難なものをご披露。
 私は「常識」という言葉を「わざと」頻繁に使うのだが、私が使うと「お前が常識を決めるな」とか「常識は人それぞれだ」という無茶な罵倒がしばしば返ってくる。ところが新潮45の拙論に対して新潮社佐藤社長と新潮の矢野編集長が「常識を著しく逸脱した」表現だと決めつけたのに対し、いつも「常識」という言葉に過敏反応を示す誰一人として、「佐藤や矢野が常識を決めるな」「出版社が著者に対して常識を決めるな」との声が聴かれなかった。
 いつもこんなもの。福田恆存ならずとも「言論は空しい」。大学の時から虚しくないと感じた事は一度もない。それでも完成させたい仕事があるので続けている。仕事の孤独さを思う時が一番孤独でない。聖徳太子、人麻呂から三島までの偉大な先人たちと一緒に仕事をしている訳だから。

【日録】

自宅で極力『春の雪』論の為の準備。ただし午前は私の近刊の打合せ、夕方はある友人の重要な著作の再刊の働きかけがようやく実り、刊行に向けて一歩踏み出せた。嬉しい。夜は帰宅するとクラシカでティーレマンのブルックナー7番、ドレスデンライヴ。サントリーでも聴いているが改めて歴史的な大指揮者のこれは偉業。明日は終日憂国忌の準備。

モモンガ論

 昨晩は四谷三丁目で産経の佐々木類論説副委員長、井ノ口さんと。お二人には九州や長州正論で何年もお世話になってきました。東京での再会。佐々木さんのモモンガ論は当夜の白眉でした。
 保守の基盤をどう再生するか。器の方も、文藝春秋、新潮が解体的な状況、産経の規模縮小…。知識人の水準も低下――日本戦後保守の偉大な文人伝統が死滅し、一方で社会思想側に一流の人材がなかなか育っていません。知識人序列を確立し直さないとだめ。今日本の言論界は左右を問わずそういうことを疎かにしすぎ。歴史を書かせてもイデオロギーを論じさせても、なんちゃって保守では核になりません。

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【日録】

 若き日から御縁をいただいてゐる不二歌道会の福永武様から美しい御本『明治維新百人一首』を頂戴した。同会は、国士にして烈士影山正治先生の大東塾の歌会。今、偶々開くと何と太田黒伴男。
よは寒くなりまさるなり唐衣(からごろも)打つに心のいそがるるかな
なぜ「何と」かと言えば、今まさに三島由紀夫『奔馬』で太田黒が首領である神風連史話の部分を読了した所だつたからだ。
 ひたすらなる自刃、自刃、自刃の数頁である。
 日米保守の連携の翌朝、神風連を思ひ、三島を思ふことが、私が今の世にある、辛うじての意味であらうか。神々は何を語り掛けてゐるのか。なぜ今朝、奔馬であり太田黒詠なのか。
 今度の日曜日は「憂国忌」で、『春の雪』を語るシンポジウムに参加する。『豊饒の海』に参ずる一週間にしたい。

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JCPAC

 おかげさまを持ちまして大成功裡に二日の日程を終了しました。私は二日とも登壇しましたが、今回はエグゼクティブプロデューサーという形で裏方でも関わらせていただいた関係上、可能な限り全セッションを聴講しました。疲れました(笑)が、率直に言って深い感動に満たされています。 いずれも専門性、具体性、また内容の面白さとも抜群でした。退屈な建前論はゼロ。日米豪印韓の専門家が一致して中国の巨大な脅威、その不当な挑戦を退ける方策を論じ続けた二日間でもありました。
私はEPとしては日本側人選、自民党執行部との窓口、各種保守団体や保守系マスコミトップへのご紹介などでお手伝いしました。人選では世界の有識者とガチンコで議論する関係上、何らかの専門的見識を確固として持っている方を重視しました。まだまだ優秀な人材が日本には多数いらっしゃるので、今後セッションを充実させてゆくことが今から楽しみです。
それにしても、この中身、イベントとしての質、盛況…JCUの饗庭直道議長の渾身の仕事ぶりによる日米の強い信頼関係の賜物です。最終セッションでの世界の保守連携への饗庭さんの構想には度肝を抜かれました。写真は、昨日家族の価値のセッションで、左から饗庭さん、私、スーザン・ヨシハラ(人口論)さん。大きな感動をもって、饗庭さんに最大限の敬意を表します。(写真提供:石原信也氏)

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 主催者からいただいた写真を幾つかご紹介。ちなみにトランプ最側近のミック・マルバニー氏と甘利氏と中国の杜教授のセッション。マルバニー氏は杜教授の論点ずらしをずばずば手厳しく批判し、甘利氏は自動車通商でのアメリカの要求をずばすば手厳しく批判し、にもかかわらずマルバニー氏が甘利氏に譲歩し蜜月をアピールする。甘利氏は「あとは安倍さんの腕の見せ所かな?」マルバニー氏「トランプ大統領と安倍総理にたくさんゴルフをさせるとうまくゆくのではないかな」など、この舞台自体が国際政治のライヴのようでした。稲田さんとは控室で「最初の予定では一緒のセッションやったのにね」と短時間ながら久しぶりに談笑できました。また、藤井厳喜氏、織田邦男氏の核保有を巡るセッションは、極めて現実的で私は強い感銘を受けました。
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【JCPAC初日】

 昨日はJCPAC初日、大変な盛況でした。饗庭直道氏、マット・シュラップ氏日米の議長によるオープニング、本音を全力でぶつける青山繁晴氏にアメリカ側論客が度肝を抜かれた冒頭セッションから、どのセッションも建前論でない質の高い専門的な議論が続きました。聴衆が、全セッションに大変な集中力で臨んでいるのに感動しました。今日は昨日以上のチケットの売行きとの事。トランプ最側近のミック・マルバニー氏、甘利明氏のセッションは大注目ですし、藤井厳喜氏、織田邦男氏とACU事務局長のダン・シュナイダー氏の「How to 核武装」、藤井氏と米メディアでも著名なゴードン・チャン氏の「宇宙・サイバー戦争」も必聴。私は、スーザン・ヨシハラ氏と「家族の価値」について論じあいます。
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 昨日のJCPACでは「マスコミ・メディア論 世界を左右する言論戦争の意味を見抜く」に参加し、米メディアで活躍中のロン・クリスティ氏とかみ合った議論ができました。私からは基調講演で近代政治思想、システムは現在のようなマスコミ、SNSを想定していない、近代的な言論の自由と現在のマスコミ、SNSの政治的影響力は別次元で考え、理論も抑止も大至急考えねば、全体主義的勢力の工作に自由社会は持ちこたえられないのではないかと提言しました。クリスティ氏はアメリカの言論の自由と政治の関係を振り返り、ワシントン、ハミルトン、ジェファーソンまでの言論の自由の確保の戦い、一方、リンカーンが寧ろそれを規制し、ニクソンはメディアに敗れたことなどを指摘しました。これはトランプ氏の現在のメディアとの戦いの意味を歴史に位置付ける試みだったと思います。討論では具体的な日米のテレビ報道の反トランプ、反安倍の途方もない無茶苦茶さを紹介しあい、日米双方が呆れ返るという場面も。SNSの危機についてもペンス演説を引き合いに、議論が出されました。討論の写真は小滝英明さんから拝借させていただきました。晩には本日登壇の藤井厳喜先生、マット・シュラップACU議長、ダン・シュナイダーACU事務局長、饗庭直道JCU議長との会食。藤井先生の抜群の英語での議論能力、饗庭さんとマットやダンとの並々ならない信頼関係に感銘した一夕でした。(こちらの写真は藤井厳喜事務所から頂戴しました。)日米の民間保守の絆を安倍―トランプ時代に一気に太く深くしてゆく為の一歩を築けたかと思います。
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【日録】

 早くも霜月折返し。月刊誌の原稿を編集部に送付した。これから11月17日、18日JCPACの準備。余力があれば、『奔馬』。明日から『春の雪』論本格化。音楽批評の完成に戻るのも明日。月刊誌が一つ入ると五日は取られる。時事と本格的な著作の振り分けをどうするかを自覚してゆきたい。今日まで伊豆。今日はウィーンフィル。大抵期待外れのウィーンフィルだが今回はウェルザー=メストなので期待している。この秋はテミルカーノフとヤンソンスが病気で来日中止。私は前者を圧倒的にひいきにしてはいるが、どちらも期待していた。大変残念だ。二人とも奇しくもムラヴィンスキーの高弟。それだけの歳月が過ぎた訳だ。

【短評】

 昨日熊野純彦氏『和辻哲郎』読了。熊野氏の最新刊『本居宣長』を長谷川三千子氏が絶賛しておられたので読んでみたが、この和辻論は評価できない。伝記と和辻哲学の形成を混ぜながら、論述の中心は『倫理学』の読みに終始する。『倫理学』はこういう抜き書き風の解説を要さない読み易い作品だ。新書の制約があるとは言え、読むならもっと批判的であってほしいし、批判史の紹介を通じて熊野氏自身の評価をはっきり打ち出すべきだったろう。とりわけ和辻の極めて保守的な共同体論と戦後思潮の大きな差、更にロールズ、ポストモダン以後、和辻哲学にどういう意味があるのか、ないのか。詩人哲学者という曖昧な言い方で逃げずにそこを論じてほしかった。
まして『日本倫理思想史』を、その天皇論の紹介だけで、ろくに論じていないのでは、和辻の最大の問題である「普遍」への希求と自らは「日本人であること」の特殊性に留まる両極への緊張をまるで見ないまま終わる事になる。和辻の「日本」と対決しない和辻論は全てまやかしだ。その意味で他の大正文化人、岩波文化人らとの「戦後」における交流・違和ももっと記述してほしかった。マルクス理解を褒めたり、ハイデガーやフッサール、あるいはベルグソンの影をみたり、その先駆的後継者たる和辻を幾ら見ても仕方ない。
 昨日はサンクトペテルブルクフィルの来日公演。私が特に高く評価する指揮者テミルカーノフが体調不良で降板、副監督のニコライ・アレクセーエフ(トルストイに出てきそうな(笑))に交替。ラフマニノフのピアノコンチェルトはソリストのルガンスキーが素晴らしい。冒頭から研ぎ澄まされた深みのある打鍵、悠揚としたスケール感、圧倒的なスケールで始まる。リヒテルみたいだが、音は寧ろ生で聞いたミケランジェリに近い。黒光りし、底知れず、生き物のようで、硬質の抒情に私はしこたま酔った。アレクセーエフの伴奏もいい。堪能した。ところがチャイコフスキーの第五は学校の先生のような指揮ぶり。というかどこもがメゾフォルティッシモ(笑)というような塗り込められ、閉じ込められた演奏で、私は時間を持て余した。ところが、である。アンコールのエルガーのニムロッド。これが余りにも素晴らしいのである。伸びやかな歌、深遠な囁き、壮大なクレッシェンド……。効果万点の曲だけどこんな風に聞かせられる人は殆どいない。それを言うなら第5だって効果万点の曲なのだし。どっちがアレクセーエフなの?

【日録】

 昨晩は松浦大悟さんの御誘いで新宿2丁目へ。妻に「新宿3丁目に行くんだぜ!」と言ったら、「それは駅名だよ」と軽くいなされたが、大変愉しい時間を過ごした。深い議論、また政治的な議論も重ねたが、それだけではない。美しい時間であった。そして私はどんな事よりも美しい時間を愛する。
自分の文章をあれこれ注釈するのは馬鹿馬鹿しいが、新潮45の拙文についてはフローベールの「ボヴァリー夫人は私だ」をそのまま引用して注釈としたい。しかもきちんとわかるように書いているのだが……。

画像に含まれている可能性があるもの:6人、、松浦 大悟さん、小川 榮太郎さんなど、、スマイル

【悩み】・【和辻博士の教育勅語観】

【悩み】和辻の日本倫理思想史の祖述から私の思想叙述が始まる。この仕事の性格をどう定めるか悩んでいる。小林の『考へるヒント』、河上の『有愁日記』が、私の批評のイメージの原型で、多年無数回愛読してきたものだ。真面目に私の『小林秀雄の後の~』を読んでもらへば、あれがこの二人の歴史・哲学エセーのスタイルを継承・発展させた点は認めてもらえるであろう。
 今回の思想史叙述もそれでゆければ勝手知ったる道なのだが、今回はそれでは私の果たしたい成果とならない。「思想史叙述こそが「思想」だ、近代日本では実はその自覚が思想家、文藝評論家、哲学者全てに欠落していたのではないか」という私が今度自覚するに至ったテーゼを実現するには、思想エセーでなく思想史的叙述として成立している必要があるからだ。カークの思想史叙述とニスベットの共同体論を一人でやったのが和辻。前者が日本倫理思想史で欧者が倫理学。勿論、前者だけなら唐木、山本健吉、小林、丸山、保田もやっている。だが、それらを思想史として位置付けて近代日本の知に一定の地図を描いた者がいない……
 だけど五十過ぎて思想史的追尾はなかなかキツイし、そもそもが一般的な意味での思想史叙述に私は興味がない。
 小林はベルグソン論でまさに思想そのものに批評の手法でチャレンジして挫折したが、文藝批評の方法をとりながらも、後世が思想史叙述の基礎研究として土台にし得る仕事は可能か。
 しかしとにかく始めてみませう。つべこべ言わずに二作、三作試作品を作りながら徐々にスタイルを定めたい。ただ、考へるヒント路線では駄目で、要するに小林節――私がやれば小川節の定型に持ち込むのは、考へるヒントⅠのやうにプラトンあり、井伏あり、諭吉ありならいいんだけど、考へるヒントⅡの江戸思想論になると、小林の論理に江戸思想を全部溶かし込んで金太郎飴になってしまう。今度の私のはその意味で小林の後の21章の方法は採れない。ここまでは明らか。

【和辻博士の教育勅語観】もし教育勅語を以て明治時代の倫理思想を代表させ得るとすれば、その特徴は古今東西に妥当すべき道を説くという点にあって、天皇尊崇とか忠孝とかを力説することではない。これはあの勅語の内容を平静に検討すれば解ることである。(日本倫理思想史上緒論初版本27頁)
 平泉澄とか渡部昇一先生とかが言うのならまあ予想された内容と言えるが和辻の発言となると意味が違う。岩波文化人としても近代日本の哲学者としても最も重視されてきた和辻だが、この最重要作は左右いずれの充分な検討のないまま今日に至っている。

【新潮……】

新潮社佐藤社長と新潮編集長矢野優氏はHanadaから申し入れた小川との対談を即座に断ってきました。矢野氏の木で鼻を括るようなたった2行のお役所回答は秀逸でした(笑) 一昨日発売、その矢野氏の編集になる『新潮』では7人による新潮45批判、小川批判が並んでいます。新潮45の7本に皮肉を飛ばしたつもりでしょうが45の多様性はこちらでは全く担保されていません。一読呆れたのは、私のテキストに何とか対峙しようとしている人さえ一人しかいなかった事でした。後はテキストの読みも示さず差別主義者と決めつけるか差別を嘆く悲しみ。「七人の寄稿者による真摯な発言が、七色の虹のような言論の多様性を生むことを願う」とは編集部の前書き。七色の虹って少女雑誌ですか? しかも中身はほぼ一色なんですけど(笑)
 私は「事件」でも「犯人」でもありません。私の「論文」が物議を醸したのだから、私抜きで批判的論考だけを7本並べるのは言論ではなく「いじめ」でしょう。朝日新聞もいきなり裁判で私を社会的に断罪、新潮社も当人の対話呼びかけは断りながら7人を動員しての批判。人の基本ができていない人たちが「朝日新聞」「新潮社」というビッグネームを背負っている風景はなかなか恐ろしいものがあります。
 私は今日は和辻『日本倫理思想史』口述という難所がこれからあるので緊張しています。朝日、新潮を相手に喧嘩は時間が勿体ない。何しろいつだって絶対私の問いに答えるつもりはない一方的非難しかないのだから。

【日録】

ご心配頂いていた風邪はだいぶよくなった。家の掃除をする気力が出てきた。昨日は短い原稿の仕上げ。ホリプロの堀会長、小堀先生ら数人に手紙等の御返事等。私の読者の山口さんからお預かりしている小説草稿読み進め。『春の雪』論口述第一回。約1時間。これから細かく踏み込んでゆく。晩は信頼している某マスコミ重鎮と食事。話題は日本存亡の危機への(最早困難極まる)対処。数人の私の師匠格の先生方に電話。話題は同じ件。政権幹部に電話。折り返しがない所を見ると深夜まで多忙でおられたのであろう。
今日は朝からバレンボイム論。何度も見直してきたもので、最終推敲はさらりとゆくかと思っていたがこれは駄目だ。やり直し! 今日は一字一句吟味を重ね続け原稿で6枚程度しか推敲が進まなかった。緊張の一週間が続きそうだ。
午後は和辻哲郎『日本倫理思想史』論口述を目指す。熊野純彦『和辻哲郎』は中途まで読んでいるが、先が見えてしまう議論で冴えない。和辻その人が平均点では私には余り魅力ある人でないのだから仕方ないか。今日読了を目指す。源氏玉鬘の読み進めも軌道に乗せる必要あり。

【トランプ大統領とCNN記者】

 トランプ大統領とCNN記者の激しいやりとりを朝のテレビで見た。理屈以前に胸がすくようだった。妻が仕事の時には朝時計代わりにテレビを付けているのだが、国内ニュースはほぼ全てこの下なく下らない話題ばかりで、それに輪をかけて製作者のレベルが異常に低い為、私は見ない。完全な汚物である。眼に触れる度にテレビを叩き壊したくなる。たまに妻が大声で笑い出す。余りと言えば余りに馬鹿馬鹿しい証拠なのだが、笑いに誘われて見に行っても、笑えた試しがない。
 先程、たまたま通り過ぎた時にやっていたトランプとCNNの記者のやり取り、トランプの率直な物言い「君は無礼でひどい人間だ。CNNは君を雇っている事を恥ずかしいと思っているだろう――」は、慇懃丁寧で建前をうまくやりこなしているどんな現在の日本人より、人間的品位がある。
 逆に言おう。
 失言を気にして終始安全運転で中身ゼロ、ハラスメントと言われればおろおろ言い訳し、差別主義者と言われれば謝罪する、現代の全ての日本の要路の人間、君たち「お上品」な皆さん、あなた方は人として限りなく品位の低い、下劣な生き物だ。
 弱虫は人の上に立つな。
 その事自体が下品な振舞だといつ気付くんだ。
 情けない振舞をしなければならない位なら腹を切れ。それが日本の男だ。
 孟子でも南洲遺訓でも武士道でも紙子にして煎じて飲んでから仕事に出たらどうだ。
 風潮にすぐ負ける奴ばかり。こんな日本が存続している意味などありはせん。

【師匠が悪い(笑)】

私の何が悪いか。師匠が悪い(笑)以下理由を記す。私は悪くないと叫びながら……。
〇フルトヴェングラー。中学時代からずっと音楽、思想、生き方の上での私の師。言うまでもなく20世紀を代表する指揮者。批評に対して非常に神経質で、悪口を書かれると押しかけていって苦情を言ったり、ホテルでばったり批評家と会ったら辺り憚らず口論を吹っ掛ける。論争好き、喧嘩好き。その上女性関係も度外れていて、隠し子数知れず、公演中のホテルでの朝食相手は毎朝違う女性だったと言われる。これが私が人生で最初に心酔した師匠。
〇チェリビダッケ。大学時代からの師匠。フルトヴェングラー後、カラヤンと並ぶ指揮者。レコードは音楽ではない、あんなビニール盤は作らないと公言して生涯レコードを作らず。ライバルのカラヤンがレコードを沢山作っている事についてはインタビューで「それは、カラヤンさんがつんぼだからか、さもなければ金儲けの為に音楽でない事を分かっているのにレコード制作に勤しんでいるのでしょう。」それ以外にも「カラヤンは大衆を夢中にさせる、コカ・コーラもね」「ベームは生涯一小節も音楽を振ったことのないジャガイモ袋」「クナッパーツブッシュのワグナーはスキャンダルだ」という調子。これが私の二人目の師匠。
福田恆存。大学時代に同人誌をお送りして以来の押しかけ弟子。あだ名は喧嘩屋こうそん。坂口安吾が生き方がそのまま文学と呼ぶような高潔な人物だったが、論争となるとシェイクスピアを地でゆくような毒舌を浴びせる。国語論争では相手の金田一京助の表音主義的見解を揶揄するに、確か「睾大痴狂介」と当て字したり、晩年の『問ひ質したきことども』では、石原慎太郎、江藤淳、渡部昇一らを叩き切る。
というわけで、私の「表現」がしばしば物議を醸すのは師匠が悪いので私が悪いのではない(笑) その上、時代が違うとか、現代の人権意識や差別を巡る表現状況は云々などという間抜傲慢な鼻糞野郎が何億人掛かってきても私は黙りません。あしからず。さて、今日も風邪を押して呑みにゆかねばなりません。皆さんさらば。

【日録】

体調は本復までゆかないがよくなってきている。今日は近く配信のメール原稿、『春の雪』論の口述。これは明日から具体的な作品を追っての精細な口述と併せて議論を深めてゆく。今日は熊野純彦氏『和辻哲郎』(岩波新書)を読む。明日は『春の雪』口述以外にも和辻の『日本倫理思想史』上巻の口述にも入る。11月17,18日はJCPACでは、私は日米保守の思想的領分に入った議論をしてみたい。その上で、先日会田弘継氏が訳出されたラッセル・カークの『保守主義の精神』と和辻の議論は非常に重要な共鳴をなしている。それが外交ネオコン、そして過激リベラルへの反動としてのトランプ支持とどう重なり、どうずれるのかなど。日本側も、実は、保守の理論化は、小堀桂一郎、西尾幹二、長谷川三千子氏らの後進が、私も含め遅々として進まず、保守論壇は政治的な意味での重要な日本の防波堤の役割は果たしているが、思想的バックボーンがなければ、安倍政治の後、信じ難いほどの崩壊を来すのは間違いない。
 私が思想、文学と言うのは、確実に来る日本大崩壊をどう防ぎ得るか、多分今の日本の言論人や有識者や政治家、経済人のレベルでは、安倍氏の6年~9年の頑張りにも関わらず、もはや防げないので、来る事実上の亡国的荒廃と大敗北の後、再生の可能性を残しておく仕事に入る為だ。

【日録】

風邪が抜けない。椅子に座つてゐると段々怠くなつてきた。が、原稿執筆は空けたくない。書斎でバレンボイム論のチェックをしてゐると居間で妻が水戸黄門を付けてゐるらしい。東野さんの懐かしい聲が聴こえる。思はず覗きにゆくと最後の場面。あのかっかっかといふ笑ひを久し振りに堪能した。誰かの回想録で、酒席で東野さんに水戸黄門の最後の呵々大笑をやつてくれと頼んだら、烈火の如く叱られた、と。あれは命がけの笑ひだ、こんなところでできるか。
 今日は原稿と源氏の玉鬘。『春の雪』は読了できるだらう。丁寧に読んでゐる。三島が込めた重層的な作意を丁寧に解きほぐす話を11月25日にしたい。

【日録】

昨日から風邪を引いて寝込んでゐるが、これから最も大切な会合があるので出かける。日本の存亡は日々厳しさを増すばかりだが、最大の問題は内側からの毀れと崩れと腐りだ。そこが分らないと……と言ふのも疲れ、生きる元気が余りない日々ながら、私は自分でできる事を考へてゐる。一番大事なのは民族の将来を信じて思想と文藝の仕事に専念する事だ。体当たりして一思ひに果ててしまひたい事だらけで、身内の皆さんからは現状でも充分自爆テロばかりしてゐるやうな危ふさが申し訳ないが、実際には静かな勉強時間は確実に増えてゐる。今日は三島命日のシンポジウムの為に久しぶりに『春の雪』を読んだ。まだ4分の1ほど残つてゐる。周到に書かれた世界観の小説、日本文藝の伝統の継承、散文詩とロマンの統合、新しい神話の試み、近代日本の肖像、そして冒頭から明確な意思を持つて書かれた長い遺書。三島は私には遠い作家であり続けたしこれからもさうだらうが、これは全く以て偉大な文学だ、素直にさう思ふ。ああ、さう言へばこれは新潮社刊(笑) 今回読んでゐるテクストは旧全集。石川淳、川端康成、中村光夫、武田泰淳が監修。私の知つてゐる、今でも毎日接してゐる新潮社はこちら。

【告知】

 私の論文を目して「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」として、人格・著作家としての小川榮太郎を全否定した、新潮社社長佐藤隆信氏と、雑誌『新潮』編集長矢野優氏に対して、月刊Hanada編集部にお願いし、正式に対談を申入れさせていただきます。
 ぜひ応じて頂きたく思い、この事実をあえて公表致しました。
 新潮社は一般の企業とは異なり、言論を預かり、表現の自由と表現者の人権・尊厳を守る砦です。自由民主社会・国民主権国家におけるその役割は死活的な重要性を帯びています。
 私は拙論文を「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と全く考えず、またそう考えていない無数の読者の声がありますが、仮に佐藤氏、矢野氏の主張の通りの代物だったとしても、憲法21条の定める「表現の自由」は、ある表現の性格・評価を越えて日本社会の根底的規矩であると考えます。なぜなら、表現の性格・評価はまちまちであり得、そうであればこそ、表現への統制はある表現の性格・評価への社会的制裁や抹殺を契機になし崩しに齎される可能性が高いものだからです。
 新潮社は社歴百十二年、雑誌『新潮』は近代日本文学、とりわけ昭和戦後文学の最重要拠点であり、こうした根底的な問いと、経営者、編集者の判断や言説を切り離す事はできません。
 佐藤社長、矢野編集長は、言論の土台を保持する言論人の一人として、私と言葉において対峙していただきたい。
 何かというと法的措置を振り回したり、遠吠えのように人を差別主義者と罵る下品な現代の風潮にあえて抗し、私は近代文学の後裔にふさわしい言論での対話を申し出ます。
 一個の言論人として応じていただけるか否か――日本の言論界はつい二か月足らず前にこの問題で大騒ぎを演じました。ところが当事者である私は徹頭徹尾つんぼ桟敷に置かれ、今や問題さえなかったかのように消えてしまいました。無責任な喚きが雑誌を潰し、私を人間の屑のように罵った人の誰一人として、拙論が提起した同調圧力、性意識の不安定性、結婚伝統の死守などのテーマを継続して論じもしない。……
 こんな「言論の自由」、こんな「自由社会」があるでしょうか。

【ティーレマンのシューマン交響曲全曲演奏会】

 ティーレマンのシューマン交響曲全曲演奏会が二日にわたってサントリーホールで行われた。1番から4番まで通し番号順。歴史的名演だったと言っていいだろう。最近の日本の聴衆は大人しくシューマンは地味なプログラムだが、大変な熱狂だった。1番は柔らかい大柄の線で描かれ、春と若さを兼ねた曲想からは大きすぎ老練な印象もあったが、2番、特に3,4楽章はティーレマンの沈潜と高揚の独壇場。しかも大きい。フィナーレの救済は筆舌に尽くせぬ高揚だった。二日目の3番〈ライン〉は空前の壮大な演奏でレコードの名盤を含めて生涯最高の演奏。4番、2楽章のロマンツェ、3楽章のスケルツォの中間部の優しさが余りにも美しく…一方、フィナーレの絶えず音楽が加速する進行があまりに強烈で、つかみきれなかった。音の奔流に呆然としながら、今日また聴きたいと切に思うが、東京公演はもうお仕舞い。ティーレマンの指揮は全く麻薬的だ。