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【日録】

昨日広島から東京に戻るつもりが、昼から畏友Iと呑み始めたまま夜まで話し込み二泊する事になつた。Iは平成で最も美しい詩を書いた親友で久しぶりの帰国、再会である。井伏鱒二と河上徹太郎の逸事を真似たわけではないが、広島で寛ぎながら久しぶりにずつと文学・音楽談義の二日だつた。志賀直哉の『和解』を久し振りに読んでそれが完璧な文章だ、リアリズムでなくリアルといふものそのものだといふ話から、文章の神様が小説の神様と呼ばれた日本の近代文学の特殊な意味を話したが、久しぶりに日本に戻つたIが志賀の『和解』の後に、偶々新聞小説で又吉何とかの文章を目にして子供の作文かと衝撃を受けたと。私は彼に言つた、作家のみならず学者も評論家も、大人のやうな難しい話を子供の作文で書く人しか今や生きてゐないよ、と。文章などどうでもいいといふ世界観は文明の終りを意味する。再三言つてきたが、皆が子供になつた中で、一人で幾らそれを説いても仕方がない。私のやうに35年、文章であるやうな文章を書く事に人生を賭けてきた人間には息をするだけでも苦痛なのが今の日本だ。
 吉田健一の翻訳――シェイクスピアやラフォルグ――が横の物を縦にしただけなのに「詩」になつてゐるといふ話から、Iがネットで見かけた詩が余りにもよくて賞賛したら、誰かがボードレールの初期詩篇を直訳したものだつたといふ話。上田敏や堀口大学の訳詩は、元の作といふより彼らの詩として読ませるけど、本当の原文の詩の力を別の言語に移し替へるのは言ふまでもなく全く不可能な筈なのに、なぜ直訳詩に、寧ろ原文の詩の力が乗り移るのか――といふやうに、久しぶりに言葉の力そのものを語り合ふ一時だつた。
伊藤静雄、三好達治の戦時詩の立派さと、フルトヴェングラーの1942年頃から1948年頃までの音楽の帯びる異様な性質――1943年のバイロイトでのマイスタージンガー全曲などに端的に表れている――と。英米が主導する近代への日本とドイツの知的な抵抗――日米戦開戦を知的戦慄と呼んだのは河上だ。ナチスへの政治的批判と別にフルトヴェングラーの反近代性が燃え上がるこの頃の「音」の妖しさと、伊藤静雄や保田與重郎の戦時中の仕事が放つ言葉の妖しさを交響させたらどうなるであらうか。
私は政治から人間を守る、合理主義的思考から人間を守るのが本来の仕事で、余りにも愚劣な攻撃から安倍政治を守るといふのは、私の本来の戦場ではない。(まあ今後も日本潰しは佳境に入る筈なのでやりますが(笑))
思想へと戻るこの瞬間に畏友Iが帰国してくれたのは、私にはまさに神の恩寵だ。このところ神縁が重なる。数年探して得られなかつた知己に各方面でやつと出会ひ始めた観がある。
今日はさすがに広島から帰宅し、岩田氏の労作『「リベラル」という病』を読み終へ、新渡戸の武士道、ルソーの主要作を至急読む予定だ。カラヤンとベームの『サロメ』も今日から。
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