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【私たちの國は歴史の外に出てしまつてゐる】

今、日本の言論は歴史的危機にあります。
新潮45休刊に際しての新潮社社長や社の「言葉」、事の経緯の異常さに声を上げる言論人が殆どゐないどころが、それを促し、助長する側に多くの物書きや編集者らが立つたことが、政治と別の次元での「言論」が自らの選択で、自殺してしまつた事を示してゐます。
戦前軍部最盛期でも出版社がこんな形で腰砕けになるなど全く想像もできない醜態です。岩波、朝日から新潮、文春、中公だらうと、「あの頃の日本」には気骨ある人間が幾らでもゐました。党派や政治的主張以前に「骨」のできがまるで別民族でした。
もう私たちの國は、日本の歴史の外に来てしまつてゐるのです。
小林や三島や安部公房の後に、万葉や源氏を読んでもそれは同じカテゴリーのものです。
文学です。
イーリアスや旧約やゲーテを読んでも同じカテゴリーです。
文学であり人間の言葉による表現です。
この文学=人間の言葉による表現の伝統が、この三十年、どれ程無視、破壊され続けてきた事でせう。
文学や言葉は自然環境以上に繊細でかつ言ふまでもなく歴史的なものです。
それを扱ふには何よりも歴史、先人へのエチケットが必要です。
今の人の人権を配慮する数万倍も歴史、先人の表現への配慮が必要なのです。
言語表現はイデオロギーの奴隷であつてはならない。
イデオロギーに抵抗する拠点であり、その時代の政治思潮、社会的風圧などといふ所詮、後世から見ればインチキでしかない一時的な迷妄に抵抗する拠点こそが、文学伝統、思想伝統です。
その事を歴史的な文学や思想の味読を通じて、体で知つてゐる出版人や物書きが、保守を含め、どれほど今の日本に残つてゐるのか。
言論の自由は――私が新潮45論文で論じた結婚と同様――近代的制度以前に由来する、人間の叡智です。自分たちの世代の理由で結婚観念を拡張する事が極めて危険なやうに、自由も又、歴史的な慎重さで取り扱はれねばなりません。言論の自由は、古来、日本社会では広範に存在し、政治・軍政権力との葛藤はあつたものの、社会風潮で人をここまで黙らせるなど、かつてありませんでした。
もう一度嘆息と共に申し上げねばなりません。
私たちの國は、あるいはその言語表現者の世界は、歴史の外に拉つし去られつつある。私たちが歴史の中に再び腰を低くして戻らない限り、日本が日本であり続ける事はできない。光輝ある文明が急速に崩壊してゆく多くの先行文明の道を、私たちの國も、今、辿らねばならないのでせうか。
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