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【私の根本的な歴史認識】

新潮45の拙論は、近代思想とその限界、頽廃、その終末に関する私の多年の本質的な疑念、問ひかけの籠つた一文である。その思想史的背景を書いておく。
 ヨーロッパ精神史そのものが自己解体をし続けて今に至つてゐると私は考へてゐる。ルネッサンス絵画の主題、造型、デッサン、諧和などによる見事なフォームが、マニエリスム、バロック、ロココ、ロマン派から印象派まで、歪み、崩れる事による様々な新たな美を示しながら、遂にピカソの後、フォームにも美にも戻る回路を失つて現在に至つてゐる事が、そのまま彼らの思想、社会の「進歩幻想」の全体像を示してゐる。
 それは進歩ではなく解体の過程だつた。
 近代の社会思想も私には人間性や秩序の解体のプロセスであつて、進歩だとは思へない。道徳を失ひ権利を得たら、だから何だといふのか。かういふと反動主義者と思はれるが、人間は代償を伴ひながら何かを手に入れるのであつて、私は近代を否定してゐるのではない。ただ代償を元に手に入れたものが進歩であり普遍的価値だと言はれても、鼻をつまんで、嘘を付けと呟くしかないだけである。
 崩れた文明には衰弱と死、その先に新たな別文明の台頭や吸収しかないのがかつての人類史全ての示す所だ。西洋に明日への余力があるか、可能性があるかには些かの疑問なしとしない。
 問題は日本だ。
 私たちは自分の思想、自分の生き方を、近現代ヨーロッパの輸入による自己変容を巧みに清算しながら、新たな過程へと再創造させ得る民族的潜在力がある。縄文以来の長期に渡るゆつたりとした自己開発による地下の蓄財が膨大だし、それを近代ヨーロッパのやうに短期に爆発させる事もなく、常にそこそこの余力を持つて歴史を生きてきた。開発しきり、自己破産する程までに自分の力を使ひきつてはゐない。ずぼらな民族だと言つてもいい。
戻れば民族的富はまだまだ豊富なので、欧米思想の放電と崩壊に付き合ふ必要はない。
私が日本の再建維持の為に思想の営みに戻ると事ある毎にいふのは、この辺りを含意しての事だ。
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