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感想

昨日は久しぶりに憂国忌に参加した。西郷と三島と題されたシンポジウムは極めて啓発的で、この種のシンポジウムとしては最上のものと言えたのではないか。水島総さんが司会、松本徹氏、渡辺利夫氏、新保祐司氏。桶谷秀昭先生は体調不良とのことで御欠席だった。
三島文学館の館長を長く務められた松本氏は、三島が西洋否定をはっきり選ぶのは林房雄との対談『日本人論』の時だとする。少し前、三島は林の『文明開化』を賞賛する書評を書いており、林はその線で話をしようとするのだが、三島は最早乗ってこない。ここで三島の「日本」がある意味で確立したのだ、と。
松本氏は豊饒の海も、西洋的な小説の否定として構想されたとする。むろん輪廻と唯識を思想的ベースにしているからそれは当然だが、しかし、豊饒の海は「文明開化」ではなく、文明開化を超克した日本と言えるか。またそう言ってやることが三島への親切になるかどうか。私は文藝を思想で解釈してゆく議論が好きでないが、いずれ遠からずこの作品のことはきちんと書きたい。
 新保氏は内村鑑三への深い造詣をベースにこのテーマに切り込んだ。内村が言う「美と崇高」――バーク、シラー以来の美学の主題でもある。バークは保守主義の確立者である前に近代美学の嚆矢だった――の内、三島はむろん「美」の天才だが、徐々に「崇高」へと志向が移っていったのではないかとする。晩年三島が西郷を蘭陵王で賞賛するのはそのような文脈の中で西郷のありようを語ったわけだ。ただし三島自身は西郷の側には行けなかった、天才であることから自由になれなかったとの指摘は同感だ。その亀裂が三島のアクチュアリティだから、没後47年経ってもこうして真摯に論じられ続けているわけである。
新保氏は、三島と西郷は共に実は日本人離れしていると指摘した。両者を陽明学で結び付けた場合、陽明学の持つキリスト教的性格――高杉晋作の指摘だという、見落としていた――は、むしろ非日本的だというのはなるほど興味深い着眼だ。敬天愛人なども確かに、日本の思想的語彙にはない。西郷の維新成就の腕前はこれも日本人離れした緻密大胆なものだし、一方、三島の晩年が寧ろ非日本的な神学の世界に入ってゆくのは明らかなのである。
渡辺氏は近著を出されている福澤が西郷を何カ所もで絶賛していることを繰り返し取り上げられた。福澤が榎本、海舟の処世を批判し、西郷を絶賛したのは瘦我慢の説だ。渡辺氏は福澤の思想の核心はむしろこうしたところにあるとされ、福澤を単純な近代主義者、近代イデオローグとする慶應ベースの定説に対する違和感を述べておられたが、これは私の多年の考えでもある。学問ノススメは江戸的儒学を批判してはいるが、だからと言って「近代的人間像」の提唱などではなく、新たに語り直された儒学と言っていいものだし、年を追うごとに、日本人のエートスそのものに福澤がかえってゆくのは福澤の主要な文章を素直に読めば明白だろう。
その上で、氏は興味深い仮説を出された。福澤の西郷絶賛は、縁戚であり、一度福澤を暗殺に来た後師事するに至る増田荘太郎から直接の西郷の風貌、日常を聞かされての事ではないかという。
この話は何か広がりがありそうな気がする。
いずれにせよ、西郷、内村、福澤と言うそれぞれに思想的には極度にカラーのきつい異質な人達が、実は「代表的日本人」として厚みを持って精神史的につながっているのに、一方、昭和45年の三島は余りにも孤独だったのではないか。
三島の「日本」と「自裁」には、そうした豊かな精神史的な横繋がりが感じられない。時代と孤絶している。西郷の死が、自然に明治天皇、内村、福澤、大久保らと繋がっていたようには、三島の死は誰とも、実はつながっていない。
江藤淳がそれを人工的な事件、三島の病気として、小林秀雄と激しくやりあい、昨今の三島崇拝者に評判が悪いが、私は江藤の「感じ方」を充分理解できる。
三島が一人で人口劇を演じたのではない。何をやっても人工的で、日本人の自然な発露にならぬような空間に既に昭和45年がなっていた。それはGHQ由来の問題というよりも、第二次大戦後、世界中を覆う病気の日本での現れなのだが、その話を川口・マーン・恵美子さんが次のように挨拶されていたのを摘録しておく。
「日本に帰ってくると、こういう「日本が」とか「我が国は」という議論を出来る場があってほっとします。ドイツでそんなことを発言すると右翼と決めつけられ、もうそういう言論の自由は全くない。EUが、世界が、地球がという主語でないと事柄を語れない。」
 フランスも同様だと竹本忠雄先生にうかがったことがある。
 ナショナルな価値、崇高さを大切にする道の外に、人類も地球もありはしない。これは思考以前の常識だろう。国民国家の成立そのものが人類の英知だったのであり、それが超克されるとすれば、自然に任せる他はなく、イデオロギーで国家や民族を崩壊に導くなどもってのほかだ。そのいわば常識敵叡智をヨーロッパにおいて全面的に否定する思想潮流がポストマルクス主義の全学問思想藝術領域を覆い、ヨーロッパはこの半世紀で思想的芸術的に自壊し続けている。日本もその激震に包まれているのである。
 早い段階でこの思潮を根底的に否定、嫌悪していたのが指揮者のフルトヴェングラーだ。私の思想的師匠をただ一人上げろと言われたら実はフルトヴェングラーなのであるが、彼は、両大戦間に早くも、ナショナルな価値を否定する進歩主義がやがて人類を饂飩粉のように覆いつくし、すべてを凡庸にするだろうと書いた。ニーチェの予言は20世紀前半に急激に現実のものとなりはじめ、今や一世紀かかって人類史的現実になりつつあるわけである。
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