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感想

今日は勉強。久しぶりに源氏。蓬生を読み進め。植村氏『丸山眞男と平泉澄』がほぼ読了なので、西村貞二『ウェーバー、トレルチ、マイネッケ』に入る。明日朝、植村氏の著書についての覚書口述を予定。私の焦点は丸山批判となる。植村氏の野心的な試みは30代での仕事だということを考えると極めて高く評価するに値する。問題設定そのものに無理がある所に、大胆な補助線を引いて、思想史の劇を描こうとした。無理が先立つだけに、議論の立て方にはいくつかの強い異議申し立てや留保があるが、何といっても卓抜なのは、この思想も方法も対極的な二人の思想家風の学者が、一方が昭和戦前、一方が昭和戦後の思想的病理の体現者だったというその直覚にあろう。氏は両者に精一杯の敬意を注ぎながら論述を進めるが、そこに浮かび上がるのは平泉、丸山それぞれの、寧ろ根深い蹉跌である。
日本近代は国体論とデモクラシー論との相克から始まる。言うまでもなく攘夷派と開国派、日本的価値観への固執と近代化論の相克だ。が、幕末から大正までこの二人に極端に感じる歪みはない。マルクス主義の登場と共に、それへの左右それぞれの思想的抵抗の中で極端な歪みを生じると言う仮説が一応立つ。戦後には更に敗戦とGHQから「配給された自由」と憲法、左翼思想解禁という更なる混乱があり、丸山は二重ないし三重の混乱の体現者になったわけだ。
私自身の切実な課題としては丸山をあらすじとして批判するのではなく――それは多くの人が手軽にし続けてきたこと――この人が、戦後日本の言論空間の、いまだに最も主要な病原である以上、そこを具体的に剔抉することが必要であろう。というのは、歴史認識、テレビや朝日との戦い、色々やってきて、アカデミズムや朝日には思想的な盲信があり、それが大体丸山の仮説や言説への盲信の「空気」に基づくことを感じることが多々あるからだ。
と言っても丸山批判という形をとるか、近代日本思想史を多面的に見てゆく中で徐々にそれを明らかにするか。まづは関連書目の濫読の3ヶ月が必要だ。読書時間の確保が今や人生最大の鍵となる。
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