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日録

保守論壇、ジャーナリズムの仕事は続けるが、生活の比重を本来の文藝、思想に戻し始めてゐる。何しろ、仕事のペースが遠大であり、今の月刊誌や書籍発行のペースとまるで違ふ世界である。物によつては一冊5年、10年かけて仕上げるといふことになる。事実『小林秀雄の後の21章』は初稿だけで4年、政治で中断した4年の後に、完成の為の推敲に2年をかけてゐる。
学問と美の喜びに沈潜し、執筆を急がず、世俗のことを忘れる人生を選ぶのは一面厳しい生き方を自ら強いることになる。世俗を忘れるとは世俗に忘れ去られることでもあるからだ。
 もつともさうしたことも決して焦らずにゆくつもりだ。一気に深山幽谷に隠れるのでなく、世俗の仕事もきちんと仕上ながら、自分の世界を深めてゆかうと思ふ。
 今日は例によつて源氏澪標、論語。川端の東京の人が愈々凄い。バルザックの日本版としたい程、濃厚な人間劇の大傑作だ。これ程の作が全く評価されずに通俗小説扱ひをされてきたとは。日本の近代文学史の通説たるや、「様々なる意匠」の交代史に過ぎず、この一事に限らず全く宛にならず。
昨日まで伊豆で聞いたトリスタンの第二幕、カラヤンとフルトヴェングラー。カラヤンは極めて立派な仕事で、同時期のベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーなどとは別格の高さにある。しかしフルトヴェングラー盤はどうしようもなく凄い。歌手が別格だからこれはもうその後の誰の盤でも敵はない。フラグスタートとズートハウス。他も全員……。フルトヴェングラーの指揮では何と言つてもテンポが凄い。単に遅いのではなく、その中で彼が何かかにかをしてゐるといふのでもなく、濃密な官能を空気が紡いでゆく感じ。これは指揮の技術を越えてしまつてゐる。フルトヴェングラーの指揮は根拠のある凄さもたくさん指摘できるが、この二幕などは根拠が指摘できにくいのに他の指揮者を圧する感銘を与へる。私の鈍りきつた音楽批評の腕でこれを描けるだらうか……。
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