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男と女がいる豊かさ、男と女がいる宿業2

一言で言えば、男がエゴイスティックに女を性の道具とみるのが言語道断なら、女が男からの求愛や親愛を、気に入らなければセクハラだと社会的に糾弾するエゴも言語道断である。男が言い寄らねば男女関係は成立しない。これは生物学的な条件だ。どこまでが許されるかどうかは道徳と良心と互いの人間関係の調整の問題である。加減の問題だ。加減の分からない人間を古来馬鹿と言う。
勘違いして女に不快を味わわせる男も、一々角を立てる女も馬鹿である。もしそれ以上の暴力的、脅迫的な要素が加われば、それは犯罪である。
この加減の部分と暴力の合間に線引きの難しいところが生じる。性は当事者らの間で秘められている。秘められた関係に社会的な基準を適用するのは不可能だし、それは文明の否定である。
ある女性がAに手を握られたら幸せや快楽を感じ、Bに手を握られたら不快で我慢ならぬとしてもまだ話の決着はつかない。不快だったはずのBにさらに強引にキスをされたら不思議なことに欲情が高まり、恋愛感情が芽生えるかもしれない。手を握るだけではBへの不快感が極度に募り、ノイローゼになったのが、その先に踏み込んだら逆に関係が進展するということがないとは限らない。強引な男が好きな女もいれば、強引な男が絶対に嫌な女もいる。しかし、誰もそんな看板をぶら下げてはいない。本人さえ気づいていないかもしれない。
 女がミニスカートで男の下宿に遊びに来て夜12時まで二人きりで酒を呑んでいる。男は終電も気にせず飲んでいる女がその先に行くものと思い事に及ぼうとしたら急に女が怒りだした。これはどちらのセクハラなのか。逆に、女が期待していたのに、男は今の時代の風潮を恐れ、どこまでも紳士的な対応に終始、女は自分はここまで大胆にふるまってさえ男の気持ちを引かない魅力ない女だと絶望し、以後、恋愛そのものをあきらめてしまうかもしれない。そうならば「紳士」が一人の女性の「性」を殺したのである。
 基準もなければ確実な法則もない。
 男女が思いやりと愛情を持ちあいながら、互いの感情を調節しあい、計りあう、それでも四六時中計算違いを起こし、予想できない出会いと別れと愛憎が繰り返される。
 なぜこのうまくいってもいかなくても豊かであるはずの男と女の関係を、喜びと悲しみの潤いある世界から、人権だ迷惑だという「社会的糾弾」の生贄にするのだろう。
女の性的魅力はそれを見ているだけで手に入れられない男にとっては暴力であり、だからこそ男の性欲は女に対して動物時代から暴力的に発動されてきたのだ。そうしたオスとメスの征服関係から、男と女の恋愛なる優しい感情を作り上げてきたのは人類の長い文明史である。
 女の魅力がまず男への―生物学的に必須な―パワー=暴力だ、それへの男の反応をどう洗練させるかが、人類の進歩の決定的な因子だった。
 性を男性の放縦に任せてはならないが、女性の男性への報復の道具に使ってもならない。何度も言うが性は相互に暴力的な影響力を持つ。だからこそ調整や加減の問題であり、社会の成熟、文化の力量の問題なのだ。その際、女性の性的な影響力の大きさをどう慎むかが本来先立って考慮されるべきであって、伝統社会はどこでもそうしてきた。女性の性を大胆に晒しておいて、男に我慢と自制を強要するのは無理筋だ。男性の性欲は行為に先立ち、女性の性欲は条件が満たされた時に遅れてやってくる。それぞれにそうである意味があるのだ。その意味を活かすのか、反目や非難や報復に用いるのか。
 性を巡るフェミニズム狂騒曲に終止符を打ち、社会的な智慧を取り戻す必要がある。
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